黄庭堅

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黄庭堅・『晩笑堂竹荘畫傳』より

黄 庭堅(こう ていけん、慶暦5年(1045年) - 崇寧4年9月30日1105年11月8日))は、中国北宋時代の書家詩人文学者である。洪州分寧(現在の江西省修水県)の人。

魯直(ろちょく)、は山谷道人(さんこくどうじん)、涪翁(ふうおう)などがある。黄山谷と呼ばれることが多い。宋代の詩人においては蘇軾陸游と並び称され、書家としては蘇軾、米芾蔡襄とともに宋の四大家に数えられる。「詩書画三絶」と讃えられ、師の蘇軾と名声を等しくして蘇黄と呼ばれた。子孫に清代の詩人、黄景仁がいる。

生涯

治平3年(1066年)に23歳で進士に及第した。黄庭堅は王安石新法派と意見を対立させたため、河南北京江西山東などの地方に赴任させられている。元豊8年(1085年)に新法派を支えた神宗が没すると旧法派が権力を奪取し、黄は首都汴京にて校書郎、著作左郎、起居舎人など中央官僚として活躍した。34歳のころ蘇軾と知り合い、張耒(ちょうらい)、晁補之(ちょうほし)、秦観とともに蘇軾門下となり蘇門四学士と称された。汴京ではこの他にも多くの文人達と交友した。

しかし、紹聖元年(1094年)以降、新法派が再度実権を握ると黄は左遷され、四川省涪州(ふしゅう)・黔州(けんしゅう)・戎州(じゅうしゅう)に貶謫されてしまう。崇寧2年(1103年)讒言を受けて宜州(現在の広西チワン族自治区)へ流刑となりその地で病没した。享年61。南宋度宗のとき名誉が回復され文節の諡号が贈られた。

地方への赴任は、自然を愛でて詩書画に耽溺する時間が許され、必ずしも不幸であったとはいえない。また仏門に帰依し老荘思想に傾倒するような自由な精神活動が行えた。むしろ黄庭堅の革新的な芸術を開花させるに理想的な環境であったといえる。

また親孝行でも有名であったらしく、二十四孝の一人として知られている。

伏波神祠詩巻』黄庭堅書(部分)紙本33.6×820.6cm、永青文庫
【釈文】経伏波/神祠/蒙蒙篁竹/下、有路上壷/頭。漢塁/麏鼯闘、/蠻溪霧

黄庭堅は草書をもっとも得意とした。若いときから草書が好きで、初め宋代の周越を師としたが、越に学んでから20年ほどの間は古人の用筆の妙を悟れず、俗気にとらわれてそれを脱することができなかった時期である。黄庭堅がもっとも苦しんだのがこの俗気を脱することであった[1]

その後顔真卿懐素楊凝式などの影響を受け、また江蘇省鎮江焦山の岸辺にある六朝時代の碑文『瘞鶴銘』の書体から啓発を受けて、丸みの有る文字が連綿と繋がる独自の草書体を確立した。明らかに懐素の影響を受けていながら、筆跡の曲折は手厚く懐素のリズムと完全に異なっている。

行書は洗練されてなお力強くて、独特の創造的書法をもつ。これらの書法は後世に対して大きい影響を与えた。そのため北宋の書道界の傑出した存在となり、蘇軾と並び評価が高い。黄庭堅と蘇軾、米芾蔡襄をして宋の四大家と称される。

書作品

作品には『伏波神祠詩巻』、『黄州寒食詩巻跋』、『松風閣詩巻』、『李白憶旧遊詩巻』などが知られる。

伏波神祠詩巻

『伏波神祠詩巻』(ふくはしんししかん)は、建中靖国元年(1101年)5月、荊州劉禹錫の「経伏波神祠詩」(ふくはしんしをへるのし)一首を楷書に近い行書で書いたもので、晩年の傑作として著名である。毎行3から5字、46行にわたる大作で、張孝祥文徴明らの多くの跋がある。紙本33.6×820.6cm。永青文庫[2][3][4][5]

黄州寒食詩巻跋

『黄州寒食詩巻跋』(こうしゅうかんじきしかんばつ)は、元符3年(1100年)の書で、蘇軾の『黄州寒食詩巻』に彼が題跋したものである。蘇軾の書も彼の快心の作であるが、この題跋も黄庭堅の作品の中で特にすぐれたものである。

行草体で9行、落款はない。内容は蘇軾の書を評して、「顔魯公楊凝式李建中の筆意を兼ねており、蘇軾に再び書かせてもこれほどの出来ばえにはならないであろう。」と讃えている。が、それにもまして黄庭堅の跋は尊敬する蘇軾の書を前にして堂々たる気構えをもって書している。そこには顔真卿と楊凝式の書法を学んだ跡が見られ、しかも禅僧のような気魄に満ちている[6][2][3][7]

黄州寒食詩巻跋』(黄庭堅書、左)と『黄州寒食詩巻』(蘇軾書、右)紙本34.2×199.5cm、台北・故宮博物院
【釈文(黄州寒食詩巻跋)】東坡此詩似李太白、/猶恐太白有未到/処。此書兼顔魯/公楊少師李西台筆意、試使東坡/復為之、未必及此。它日/東坡或見此書、応/笑我於無仏処/称尊也[8]

松風閣詩巻

『松風閣詩巻』(しょうふうかくしかん)は、崇寧元年(1102年)の流謫中の書で、晩年の作として特に重視されている。自詠の詩を行書で29行に書いている。この詩巻には顔真卿の他に、柳公権の筆意をも兼ねあわせた筆致が伺え、一段と円熟した境地に達している。紙本。台北・故宮博物院蔵[9][2]

李白憶旧遊詩巻

『李白憶旧遊詩巻』(りはくおくきゅうゆうしかん、李太白憶旧遊詩巻とも)は、紹聖元年(1094年)以後の書で、李白の「憶旧遊寄譙郡元参軍詩」(きゅうゆうをおもい しょうぐんげんさんぐんによするのし)一首を草書で書いたものである。紙本37cm×39.2cm。藤井斉成会有鄰館[9][2][3][6]

詩文

黄庭堅は詩文にも優れ、杜甫の詩と韓愈の文に造詣が深い。「換骨奪胎」[10]の語で知られる詩論を確立し、後世江西詩派の開祖とされた。 著書『山谷詩集』の中に書道芸術に対してもいくつかの重要な見解を発表している。優れた伝統の継承と個性の創造を強調して、その作品で実証してみせている。

荊江亭即事
原文 書き下し文 意訳
翰墨場中老伏波 翰墨場中の老伏波 わたしは翰林院に馴染めない馬援老将のようであり
菩提坊裏病維摩 菩提坊裏の病維摩 病のため釈迦の下に参ずることがかなわない維摩のようだ
近人積水無鷗鷺 人に近づき積水に鷗鷺無く 豊かな自然はあっても粋人や友はおらず
時有帰牛浮鼻過 時に帰牛の鼻を浮かべて過ぐる有り 無粋な者を相手に無益な時間を過している

脚注

  1. ^ 中田(書論集) PP..213-216
  2. ^ a b c d 飯島(辞典) PP..238-240
  3. ^ a b c 西林 PP..72-77
  4. ^ 西川(辞典) P.110
  5. ^ 中西(辞典) P.851
  6. ^ a b 比田井 PP..235-237
  7. ^ 木村 PP..172-173
  8. ^ 中文
  9. ^ a b 魚住 PP..35-42
  10. ^ 「換骨奪胎」(かんこつだったい)とは、古人の詩文をもととし、これに創意を加えて新しい作品をつくることをいう(魚住 P.36)。

伝記・作品注解

  • 倉田淳之助訳著『黄山谷』 集英社:漢詩大系18 初版1967
青木正児目加田誠ほか編、漢詩選12・新版1997 
  • 荒井健訳注『黄庭堅』中国詩人選集二集.7巻 岩波書店
吉川幸次郎小川環樹編集・校閲 初版1963、新版1990
「黄山谷の詩と生涯」、「黄庭堅詩論考」 

参考文献

関連項目