晁補之

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晁 補之(ちょう ほし、1053年 - 1110年)は、中国北宋の文人。は無咎、帰来子と号する。済州鉅野県の出身。本貫澶州清豊県蘇軾の門下となり、黄庭堅秦観張耒とともに「蘇門四学士」と称された。高祖父は晁迪。曾祖父は晁宗簡。祖父は晁仲偃。父は晁端友。弟は晁将之。族兄弟(晁迪の弟の晁迥の玄孫)は晁説之晁謙之晁詠之晁載之晁沖之晁公武の父)など。

生涯[編集]

晁補之

聡明で記憶力がよく、文章がうまいところから王安国にその才能を認められる。17歳の時に父の晁端友に連れられ杭州に行き、銭塘の風物を詩に詠じ、蘇軾に見いだされ広く知られるようになる。郷試・会試ともに第一位で、元豊2年(1079年)に進士となる。神宗時期に北京国子監教授となる。元祐元年(1086年)に太学正・著作佐郎となる。紹聖元年(1094年)に斉州知州となり、『神宗実録』を編修したが、間違った記述をしたという理由で応天府通判、ついで亳州通判に左遷され、哲宗元符2年(1099年)にはさらに処州に赴任する途中、喪(丁憂)に服し、監信州酒税となる。徽宗時期に召されて吏部外郎・礼部員外郎中・国子編修実録検討官を拝命する。ついで河中府湖州密州陳州をへて、鴻慶宮提挙になる。大観4年(1110年)に泗州知州となり、まもなく没する。任城県呂村に葬られた。南宋高宗建炎4年(1130年)、龍図閣直学士を贈られた。

著作[編集]

陶淵明の人となりを慕い、故郷に帰来園を作り帰来子と称する。族弟の晁謙之が編んだ『鶏肋集』が残されている。楚の詞論にもっとも通じ、屈原宋玉以来の賦を集め『変離騒』などの書を編纂した。

参考文献[編集]