長與專齋

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長與 專齋(ながよせんさい、天保9年8月28日1838年10月16日) - 明治35年(1902年9月8日)は日本医師医学者官僚。号は松香。姓は藤原、名は秉継。

略歴

肥前国大村藩(現在の長崎県大村市)に代々仕える漢方医の家系に生まれる。

大村藩藩校である五教館長崎県立大村高等学校の前身)で学んだ後、安政元年(1854年)、大坂にて緒方洪庵適塾に入門し、やがて塾頭となる(福澤諭吉の後任)。のち大村藩の侍医となった。

文久元年(1861年)、長崎に赴き、医学伝習所にて、オランダ人医師ポンペのもとで西洋医学を修める。その後、ポンペの後任マンスフェルトに師事し、医学教育近代化の必要性を諭される。明治元年(1868年)、長崎精得館の医師頭取(病院長)に就任。明治維新により同館は長崎府医学校(現長崎大学医学部)となったが、マンスフェルトと共に、自然科学を教える予科と医学を教える本科に区分する学制改革を行った。

明治4年(1871年)、岩倉遣欧使節団の一員として渡欧し、ドイツオランダの医学及び衛生行政を視察した。

明治6年(1873年)に帰国。明治7年(1874年)、文部省医務局長に就任。また東京医学校(現在の東京大学医学部)の校長を兼務。同年、東京司薬場(国立医薬品食品衛生研究所の前身)を創設した。

明治8年(1875年)、医務局が内務省に移管されると、衛生局と改称して、初代局長に就任。コレラなど伝染病の流行に対して衛生工事を推進し、また衛生思想の普及に尽力。衛生」の語は、Hygieneの訳語として長与が採用したものである。

専斎長與先生墓

愛知医学校長兼愛知病院長であった後藤新平を見出し、明治16年(1883年)、内務省衛生局に採用した。1892年(明治25年)、衛生行政の後継者として後藤新平を衛生局長に据えた[1]

明治24年(1891年)に衛生局長を退いて後も、元老院議官貴族院議員、宮中顧問官、中央衛生会長などを歴任。また、石黒忠悳三宅秀佐野常民らと大日本私立衛生会(のち日本衛生会、現日本公衆衛生協会)を興し会頭に就任するなど、医学界及び衛生行政に重きをなした。

家系

長男・長與稱吉も医師であり、専斎の功により男爵を授けられた。次男・長與程三は実業界に進み、日本輸出絹連合会組長。三男・長與又郎は病理学者で東京帝国大学総長、男爵。四男・岩永裕吉同盟通信社の初代社長。五男・長與善郎白樺派作家劇作家

脚注

  1. ^ 越澤明『後藤新平 -大震災と帝都復興』ちくま新書、2011年、pp.51~67。ISBN 978-4-480-06639-8

参考文献

  • 『松本順自伝・長与専斎自伝』小川鼎三酒井シヅ校注、平凡社〈東洋文庫386〉、1980年9月。ISBN 978-4-582-80386-0 
  • 外山幹夫『医療福祉の祖 長与専斎』思文閣出版、2002年6月。ISBN 4-7842-1107-1 
  • 長与健夫「医学教育制度の変革・漢方から洋学へ―浅井国幹と長与専斎の相剋を中心にして」『日本医史学雑誌』第43巻第4号、日本医史学会、1997年、pp. 93-94。 
  • 本馬貞夫「長与専斎―公衆衛生行政の創始者」ヴォルフガング・ミヒェル鳥井裕美子川嶌眞人共編 編『九州の蘭学―越境と交流』思文閣出版、2009年6月、pp. 329-332頁。ISBN 978-4-7842-1410-5 
  • 越澤明『後藤新平 -大震災と帝都復興』ちくま新書、2011年。ISBN 978-4-480-06639-8

関連項目

外部リンク