銀錠

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小型銀錠

銀錠(ぎんじょう、中国語:银锭、満洲語: ᡧᠣᡤᡝ 転写:šoge)とは、20世紀前期まで中国において用いられていた秤量貨幣の形態を取る銀貨。日本では馬蹄銀。古くは、銀鋌。元朝以降は元宝(元寶)とも呼ばれた。

概要

古くは、銀鋌(ぎんてい)と呼ばれ分銅形もしくは長方形であったが、後に独特のおわん型もしくは馬蹄に似た形状に徐々に形状が変化し、それに伴い銀錠と呼ばれるように変化した[1]。納税や大型取引に使用される際に、上に何重にも積み重ねるため、倒れにくいようにおわん型(あるいは馬蹄型)の独特な形状に変化していった可能性が高い。

「錠」と呼ばれた所以は、現代と錠前の形が違っており、当時は錠前は完全に覆われて居ないものも多く、鍵穴に刺すのではなく上記写真にある小型銀錠と似た形のV字型錠前に開いている物があったからである。日本においても特に清王朝以降に知られたが、すでに当時の錠前は形状が変化していたため銀錠の名前は定着せず、当時の人々が身近だったの形と似ていたことから、馬蹄銀(ばていぎん)と呼ばれ、この名称が広く用いられているが、この名称は明治期日本人が名づけたものとされ、中国においても馬蹄銀の名称はほとんど用いられてはいなかった。また、馬蹄形状以外にも、実際には多種多様の形式の銀錠が存在していた。秤量貨幣である事から、形状の細部には重視されず重量さえ一致すれば細部の小さな造形にはこだわらなかった事も多種多様な形状の銀錠が生まれた原因だが、広大な中国でもあり制作が地方各地で作られた事も形状の多様性を生んだ。元朝以降に入ると細部の造形にこだわったものも現れ、縁起の良い文言が刻まれたり、また、金で作られたものも作られ、実用通貨ではなくなんらかの贈答用にも使われた可能性がある。

単位は重量単位と同じ(「銀両」、満洲語: ᠶᠠᠨ 転写:yan)であり、その英語表記よりテール(tael)と呼ばれる事もあった。材質は南鐐(なんりょう)と呼ばれる純に近い良質の灰吹銀であり、量目は1両(37グラム)から50両(1865グラム)程度と大小様々なものが存在する。また、時代により様々な形状があり、文字刻印が施されたものも多い。なお、中国で1両の重みは王朝時代により若干変化しているので、唐代、元時代、清時代で重量は微差があるため注意が必要である。元朝以降には、金で作られたものも存在しており、金錠と呼ばれた。

金銀錠
紋銀と呼ばれた元朝時代の銀錠
ヨハン・ジョイコブ・ウェイバーが1843年に描いた銀錠
の揚州元宝。至元十四年の刻印が見える50両銀錠中国財税博物館の所蔵
金で作られた元宝。細かな龍の模様や福を招く縁起の良い文言が刻まれている

元宝

元では、貨幣通貨を元寶(元宝)と呼び刻印したため、銀錠も元寶もしくは元宝と呼ばれた。この際、銀錠以外のコイン形状の銀貨も元宝と呼んでおり、当時は通貨全般を指していたと思われる。それ以前から唐時代の開元通宝も対読(上・下・右・左の順に読む)と「開元通寳」となるが、右回りに読む廻読では開通元寳と読める事から、銅貨を俗称として元宝と呼ばれた可能性はあるが、銀錠が元宝と呼ばれ始めたのは元朝以降からである。清朝以降の元宝か形状が若干変化し、おわん(あるいは馬蹄)中央部のくぼみが球状に盛り上がる形態を見せている。

日本での輸出用の製造

灰吹法の導入により16世紀中頃より南米のポトシ銀山、日本の石見銀山などで銀の産出が著しく増大し、ポトシ銀山の銀はヨーロッパを通じて、日本の銀は生糸貿易の対価として中国に多量に輸入されるようになった[2]。日本では産銀は一旦丁銀に鋳造され、長崎において銀錠に吹き直されて多量に中国へ流出した[3]

現代

現在では、貨幣としての銀錠は廃れたが、中国では富の象徴、縁起物として使われており、めでたい席で絵に描かれたり模造品が飾られたりする事がある。この際は、銀錠の名称ではなく元宝の名前で呼ばれる事が多く、また飾られるものも金色のものが多い。なお、餃子の形状自体が、財運を招くために銀錠の形を模した、とする伝承があり、中国では新年に財運向上を願って餃子を大食いする風習がある地域がある。現代では銀錠(元宝)形状のお菓子を作って売りだしたり風水アイテムなどの触れ込みで売りに出されている事も多い。


関連項目

参考文献

  1. ^ [1]日本銀行政策研究所 中国貨幣の歴史
  2. ^ 『輝きふたたび 石見銀山展』島根県立古代出雲歴史博物館、石見銀山資料館、2007年
  3. ^ 田谷博吉 『近世銀座の研究』 吉川弘文館、1963年