野澤晁
| ||||||
---|---|---|---|---|---|---|
名前 | ||||||
カタカナ | ノザワ アキラ | |||||
ラテン文字 | NOZAWA Akira | |||||
基本情報 | ||||||
国籍 | 日本 | |||||
出身地 | 広島県 | |||||
選手情報 | ||||||
ポジション | FW | |||||
代表歴 | ||||||
1934 | 日本 | 3 (3) | ||||
■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
野澤 晁[1](のざわ あきら[要出典])は、広島県出身の元サッカー選手、日本代表選手(全日本)。フォワード。野澤正雄は実兄。
来歴
広島高等師範附属中学(現広島大学附属高校)から1933年、早稲田大学入学。早稲田大学ア式蹴球部で、川本泰三、堀江忠男、加茂健、加茂正五、西邑昌一らと関東大学リーグを四連覇、東京大学ア式蹴球部黄金期後の早稲田大学黄金時代に貢献した。大学在学中の1934年には日本代表に選出され、第10回極東選手権大会(マニラ)出場。足を痛めていた川本に次ぐフォワードとして全3試合にフル出場。第2戦の対・フィリピン戦では、相手に胸を蹴られて肋骨が折れ、意識をなくほどの重症を負ったが、逆転の決勝ゴールを叩き込むなど3試合3得点と活躍した[2][3]。
戦後は中国新聞の系列会社「夕刊ひろしま新聞社」に勤務。サッカーはこの会社でも続けた。
所属クラブ
代表歴
出場大会
- 第10回極東選手権大会(1934)
試合数
- 国際Aマッチ 3試合 0得点(1934)
日本代表 | 国際Aマッチ | その他 | 期間通算 | |||
---|---|---|---|---|---|---|
年 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 |
1934 | 3 | 3 | 0 | 0 | 3 | 3 |
通算 | 3 | 3 | 0 | 0 | 3 | 3 |
脚注
- ^ 代表TIMELINE | SAMURAI BLUE サッカー日本代表 | 日本サッカー協会/
- ^ ケガの恐怖を除くドリブル練習|賀川サッカーライブラリー
- ^ 後藤健生『日本サッカー史・日本代表の90年』双葉社、2007年、14、15頁