西尾忠移

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西尾忠移
時代 江戸時代中期 - 後期
生誕 延享3年(1746年
死没 享和元年3月27日1801年5月9日
別名 金三郎(幼名)、尚親(初名)、忠移
戒名 慈徳院覚艶天光
墓所 静岡県掛川市西大渕の龍眠寺
官位 従五位下山城守、隠岐
幕府 江戸幕府 奏者番寺社奉行
遠江横須賀藩
氏族 西尾氏
父母 父:西尾忠需
兄弟 忠雅忠移
正室:田沼意次の3女、千賀姫
忠亮(次男)、千次郎
娘(西尾忠善正室)、娘(酒井忠実正室)
娘(久世綏之正室)、娘(松平乗譲正室)
養子:西尾忠善
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西尾 忠移(にしお ただゆき)は、遠江横須賀藩の第4代藩主。横須賀藩西尾家7代。

延享3年(1746年)、第3代藩主・西尾忠需の次男として生まれる。明和2年(1765年)10月に長兄・西尾忠雅が早世したため、12月20日に世子として指名された。明和3年(1766年)12月19日、従五位下、山城守に叙任する。天明2年(1782年)9月29日、父が隠居したため、家督を継いで藩主となり、その後、隠岐守に転任した(天明7年(1787年)7月1日とも、天明2年(1782年)10月1日ともいわれる)。

天明4年(1784年)5月15日、寺社奉行兼奏者番に任じられた。しかし12月に江戸藩邸の失火により、天明5年(1785年)1月まで出仕を差し止められている。天明6年(1786年)、田沼意次が失脚すると、意次の縁者であったが、相良城の取り壊しに務めている。

藩政においては、甘藷(サツマイモ)の栽培、精糖法の研究など、産業開発による藩財政再建を目指した。また、自らが蘭学・絵画に造詣が深かったため、高森観好ら多くの文化人を招聘し、文化の発展に尽力している。

享和元年(1801年)3月27日、横須賀城にて死去。享年56。男子は全て早世していたため、婿養子の西尾忠善があとを継いだ。