藤原正光

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藤原正光
時代 平安時代中期
生誕 天暦11年(957年
死没 長和3年2月29日1014年3月31日
官位 従三位参議大蔵
氏族 藤原北家九条流
父母 父:藤原兼通、母:藤原有年の娘
兄弟 顕光媓子時光朝光遠光光昭正光婉子親光用光
源高明の娘
藤原永年の娘
兼貞光子永家、実慶、娘(藤原長家室)
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藤原 正光(ふじわら の まさみつ)は、平安時代中期の公卿

生涯

関白藤原兼通の六男として生まれる。祖父の師輔は当時右大臣であり、朝廷の実力者でもあったが、上席には兄の実頼左大臣として健在であり、また兼通も二男でありこの時点で公卿にもなっておらず、正光の将来は不透明であった。さらに、師輔は天徳4年(960年)には右大臣のまま死去してしまう。

ところが、安和元年(968年)に摂政となっていた実頼が薨去するとともに兼通の兄伊尹が代わって摂政となり、さらに安和2年(969年)に円融天皇即位すると、これらによる大規模な人事異動の中で、正光は新天皇の東宮時代の小舎人であったことも幸いし、13歳にして昇殿を許される。また翌天禄元年(970年)には、従五位近江少掾となり、兼通の遅くの子であったため、その昇進の余慶を受けて官途の始まりは順調だった。

伊尹の死を受けて兼通は天禄3年(973年)に、参議任官から4年で関白に就任するという異例の人事となる。このため正光も侍従、ついで左近衛少将に任じられ近江介を兼ねた。さらに、5年で3度の昇叙の結果、位階従四位下に昇った。しかし、貞元2年(977年)に、関白任官後わずか5年で兼通が薨去すると、以後の昇進は滞ることとなった。

この間に正光は兼通の弟で、兄弟仲の悪かった兼家に接近したらしく、永観2年(984年)に兼家の孫懐仁親王が東宮となると東宮昇殿を許されており、さらに寛和2年(986年)にその東宮が一条天皇として即位し、母詮子皇太后となると皇太后宮権亮に就任し、兼家の近臣として認められている様子がうかがえる。同じ年、10年ぶりの昇叙によって従四位上となっているのも、この関係によるものと思われる。この皇太后宮権亮は、5年後の正暦2年(991年)に円融上皇の崩御に伴い詮子が出家するとともに停止となったが、翌年には左近衛中将に任じられている。

長徳2年(996年)、疫病の流行などで公卿が大幅に入れ替わるとともに、藤原道長が左大臣として首班となると、正光の兄の顕光が次席の右大臣となった。この年の4月には正光は公卿に次いで重要な役職である蔵人頭に任じられ、さらに2年後の長徳4年(998年)には大蔵卿を兼ねた。しかし、人脈としては兄である顕光よりは、兼家から引き続いてその子である道長に近かったようで、長保2年(1000年)に道長の娘である彰子中宮となると中宮亮に任じられている。のちに三条天皇皇后娍子の立后に際して、対立する中宮妍子の父であった道長派の一員として、立后の儀式に出席するよう求めた使者に瓦礫を投げつけたりしていることが藤原実資の日記に記されているが、これは兄の一人である時光が同様に宮中からの退出を道長に妨害された一条天皇中宮定子のために退出の上卿を務めたこととは対照的で、兄弟で政権中枢である兼家-道長親子との距離のとり方の違いが表れている。

その後、寛弘元年(1004年)2月には参議となり、同年10月には従三位に昇るなど、上級貴族の一員となった。しかし、その後は特に官位は変わることなく、長和3年に顕光や時光などの兄に先立って58歳で薨去した。

なお、『枕草子』には「大蔵卿ばかり耳とき人はなし」で始まる段があるが、これは正光のことを指しているとされ、この中で遠くに座っていた正光が、清少納言が隣にいた人でも聞き返してくるくらいの小声で言ったことを、しっかり聞き逃さなかったことが書かれている。

その他官歴

  • 長保5年(1003年):備前守、尾張権守

系譜