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蕭衍

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武帝 蕭衍
初皇帝
梁武帝-蕭衍
王朝
在位期間 502年 - 549年
姓・諱 蕭衍
叔達
小字 練児
諡号 武皇帝
廟号 高祖
生年 464年9月17日大明8年)
没年 549年8月12日太清3年)
蕭順之
張尚柔
陵墓 修陵
年号 天監 : 502年 - 519年
普通 : 520年 - 527年
大通 : 527年 - 529年
中大通 : 529年 - 534年
大同 : 535年 - 546年
中大同 : 546年 - 547年
太清 : 547年 - 549年

蕭衍(しょう えん、464年9月17日 - 549年8月12日)は、南朝の初代皇帝。

出自

南蘭陵(江蘇省)の蕭氏(蘭陵蕭氏)の一門であり、南斉宗室の支族に当たる。

父の蕭順之は南斉の高帝蕭道成の族弟であり、丹陽であった。

略歴

梁朝の建国

若い頃より文武両面において注目され、南斉時代で文化の中心であった竟陵王蕭子良の西邸にも出入りし、沈約らと共に八友の一人に数えられた。

蕭衍が雍州(湖北省襄陽市)の刺史であった時、南斉の暴君蕭宝巻(東昏侯)打倒の兵を挙げ、都の建康に軍を進めて東昏侯を殺害した。やがて和帝禅譲を受け、502年(天監元年)に帝位に即き、梁朝を興した。

治世前半

治世前半、天監年間(502年 - 519年)の武帝は、沈約や范雲に代表される主に名族出身者を宰相の位に就け、諸般にわたって倹約をモットーとし、官制の整備、梁の頒布、大学の設置、人材の登用、租税の軽減等の方面において実績を挙げた。また、土断法を実施し、流氓対策でも有効的な施策を実施した。

皇帝菩薩

520年には、普通と改元した。それ以降は、次第に政治的には放縦さが目に付くようになり、それに反比例して武帝が帰依する仏教教団に対しては寛容さが目立ち、また武帝自身、仏教への関心を強めた。

ついには527年大通元年)以降、自らが建立した同泰寺で「捨身」の名目で莫大な財物を施与した。その結果、梁朝の財政は逼迫し、民衆に対する苛斂誅求が再現されてしまう。また朱异に代表される寒門出身者を重用したことで、官界の綱紀も紊乱の様相を呈してきた。

ただ、武帝の仏教信仰は表面的なものではなく、数々の仏典に対する注釈書を著し、その生活は仏教の戒律に従ったものであり、菜食を堅持したため、「皇帝菩薩」とも称された[1]。このことは国家仏教的な色彩の濃厚な北朝で用いられた「皇帝即如来」との対比において、南朝の仏教のさまを表す称号として評価されている。

また梁は東南アジア西域諸国、また朝鮮半島の百済との交渉が盛んで、それら諸国からの武帝宛国書では仏教用語を用いて武帝を菩薩扱いし、梁を礼賛していたといわれ[2]、武帝は当時の国際社会において仏教信仰でも高名であった。日本(倭国)へも百済を仲介して影響がある。


侯景の乱

548年(太清2年)、東魏の武将侯景が梁に帰順を申し出てきた。武帝はそれを東魏勢力に対抗する好機と判断し、臣下の反対を押し切って、侯景に援軍を送り河南王に封じた。しかし、東魏と彭城(今の江蘇省徐州市)で戦った梁軍は大敗し、侯景の軍も渦陽(今の安徽省蒙県)で敗れてしまう。

その後、武帝は彼に軍を保持したまま梁朝に投降することを許可するが、やがて彼は梁朝の宗室諸王の連帯の乱れに乗じて叛乱を起こし(侯景の乱)、都城の建康を包囲した。

当時建康の外城を守っていたのは、東宮学士庾信率いる文武三千人だったが、鉄面をつけた侯景軍が迫ってくると瞬く間に四散してしまい、浮橋を落とすことにも失敗し、こうして侯景軍は宣陽門から、宗室の臨賀王の手引きの下、殆ど無血で場内へと入ってきた。武帝達は内城に篭り、侯景達は彼らを包囲しつつ、占拠した東宮で捕獲した宮女達数百人を将兵に分かち与えて、祝宴を始めた。怒った皇太子は兵を派遣して、東宮を焼いてしまい、こうして南朝数百年で積み上げられた建康の歴史的建造物も、その蔵書も多くが焼けてしまった。

内城攻略戦は、梁将羊侃の健闘により数ヶ月に渡って一進一退の様を呈し、侯景が木驢を数百体作り城を攻めると、羊侃は葦に油を注いで放火してそれらを焼いてしまう有様だった。業を煮やした侯景は、宮城の東西に土山を築く為、場内の住民を平民から王侯から貴賎の別なく駆り立てて、倒れる者は土山の中に埋められた。しかし、山は完成を見ぬうちに豪雨が降り崩壊してしまう。

そこで、今度は侯景は奴隷解放令を出し、宮中の奴で下る者は皆良民にすると宣言した。早速、朱昇の奴が下ってくると儀同三司の官位が与えられ、これに感激した奴はかつての主人に向かって、叫んだという。

「お前に50年もつかえてやっと中領軍になれただけだが、侯王様に仕えたら早くも儀同になったぞ!」

3日のうちに侯景の兵力は激増し、一方、場内の防御軍は櫛の歯の抜けるように脱走は相次ぎ、ついに549年(太清3年)3月、場内を統率していた羊侃が死ぬと、いよいよ戦況は最終局面を見せた。 場内の兵士や立てこもった男女もいまや体が腫れて呼吸も困難となり、「爛汁、堀に満つる」有様だった。 こうした中、侯景は玄武湖の水を堀に注いで水攻めを開始、ついに城は陥落した。

引き立てられた武帝は、侯景に言ったという。

「江を渡る時、何人いたのか?」

「千人です。」

「では、建康を囲んだ時は?」

「10万人」

「今は何人なのだ?」

「率士のうち、己の有にあらざるはありません。」

こうして、武帝は黙ってうなだれたまま、幽閉され、食事も満足に与えられなかった。 憂憤のうちに病気になり、蜜を求めたが与えられず、失意のうちに死んでしまった。[3]

後世の評価

北宋司馬光は「資治通鑑梁紀論賛にて次のように評している[4]

梁の高祖(蕭衍)が終わりを全うしなかったのはもっともだ。自らの粗食(菜食)を盛徳とし、君主としての道が既に備わって、これ以上加えるものがなく、群臣の諫言はどれも聞くに値しないとした。(…)名は辱しめられ、身は危うく、国は覆り(滅び)、宗廟の祀りは絶え、長く後世に憫笑(嘲笑の意)された。哀しいことだ

妻子

脚注

  1. ^ 『梁の武帝 仏教王朝の悲劇』(森三樹三郎平楽寺書店 1956年)(『サーラ叢書』5)
  2. ^ 河上麻由子「遣隋使と仏教」『日本歴史』717 号、2008年2月、同「中国南朝の対外関係において仏教が果たした役割について : 南海諸国が奉った上表文の検討を中心に」『史学雑誌 』第117編第12号,2008年12月。
  3. ^ 「梁武の悲劇-侯景の乱」『世界の歴史 4  唐とインド』中央公論社、1961年、pp.248-254
  4. ^ 『中国古典文学大系第14巻 資治通鑑選』(広常人世 新田大作 石川忠久 頼勤惟 山井勇平凡社 1970年

参考文献

先代
皇帝
502年 - 549年
次代
簡文帝