茶屋四郎次郎
茶屋 四郎次郎(ちゃや しろうじろう、ちゃや しろじろう)は、安土桃山時代から江戸時代にかけての公儀呉服師を世襲した京都の豪商。当主は代々「茶屋四郎次郎」を襲名する習わしであった。
概要
正式な名字は中島氏。信濃守護小笠原長時の家臣であった中島明延が武士を廃業し、大永年間(1521年~1527年)[1]に京に上って呉服商を始めたのがはじまりとされる。茶屋の屋号は将軍足利義輝がしばしば明延の屋敷に茶を飲みに立ち寄ったことに由来する。茶屋家は屋敷を新町通蛸薬師下る(現在の京都市中京区)に設け、160年にわたって本拠とした。
初代清延が徳川家康と接近し、徳川家の呉服御用を一手に引き受けるようになった。三代清次は家康の側近や代官の役割も勤め、朱印船貿易で巨万の富を築いた。また角倉了以の角倉家、後藤四郎兵衛の後藤四郎兵衛家とともに京都町人頭を世襲し、「京の三長者」と言われた。しかし鎖国後は朱印船貿易特権を失い、以後は呉服師・生糸販売を専業とするようになる。10代延国(延因)時代の1800年(寛政12年)には納入価格をめぐって呉服御用差し止めを受け、1807年(文化7年)に禁を解かれたものの以降はふるわず、明治維新後間もなく廃業した[2]。江戸時代初期の豪商に多い「特権商人」の典型とされる。
代表的な当主
- 初代:茶屋 清延(ちゃや きよのぶ、天文14年(1545年) - 慶長元年閏7月27日(1596年9月19日))
- 明延の子で「茶屋家初代」とされる人物。若い頃は家康に仕え、三方ヶ原の戦い等で活躍して橘の家紋を賜ったとされる[3]。本能寺の変の際、堺に滞在中であった徳川家康一行に早馬で一報し、後世に「神君伊賀越」といわれた脱出劇の際、物心ともに支援を行った。この恩により、徳川家康の御用商人として取り立てられる。
- 二代:茶屋 清忠(ちゃや きよただ、生年不詳 - 慶長8年4月1日(1603年5月11日))
- 初代の長男。父の地盤を引き継ぎ、徳川家御用達商人をつとめた。豊臣秀吉死後、徳川家康の権勢が絶大になるに及び、清忠も「淀川過書船支配」など京・大坂の物流の取締役に任命され、優遇されるようになる。1600年の関ヶ原の戦い後には京都の情勢不穏を家康に進言し、京都所司代設置のきっかけを作った。板倉勝重が所司代に就任すると上方五カ所(京都・大坂・奈良・堺・伏見)町人の御礼支配、京都町人頭にも任命されたが、1603年に死亡した。
- 三代:茶屋 清次(ちゃや きよつぐ、天正12年(1584年) - 元和8年7月16日(1622年8月22日))
- 二代の弟で、長谷川藤広の養子となっていたが、兄の急逝のため江戸幕府の命で急遽跡を継いだ。呉服師の一方で藤広の長崎奉行就任後は長崎代官補佐役などを務める。1612年、朱印船貿易の特権を得ることに成功し、主にベトナム北部に船を派遣し、莫大な富を得た。その財産によって茶道具を蒐集し、本阿弥光悦らの芸術支援にも熱心であったが、38歳の若さで死去した。
- 家康の死の原因とも言われる「鯛の天ぷら」を家康に勧めたのは清次とされる。
その他
蛸薬師下るの本邸は1708年(宝永5年)の大火によって焼失し、上京区小川通出水上るに移転した。このためこの付近は茶屋町と呼ばれる[4]。左京区北白川の瓜生山に別荘を持っていたことから、一帯の丘陵を古くは「茶山」と称した。「中島情延」の代であったことから、情延山とも呼ばれる[5]。
清延三男の新四郎長吉(長意)は尾張藩に下り、尾張茶屋家(新四郎家)を創設した。尾張茶屋家は尾張藩主の御側御用と、本家同様公儀呉服師も勤めた。また新田開発に従事し、茶屋新田・茶屋後新田を拓いた。蓬左文庫には尾州茶屋家文書が収録されている[6]。
脚注
外部リンク
- 茶屋明延- コトバンク、小和田哲男執筆項
- 茶屋四郎次郎(初代) - コトバンク、中田易直執筆項
- 茶屋四郎次郎(2代) - コトバンク
- 茶屋四郎次郎(3代) - コトバンク
- 「近世における京都室町商人の系譜(1)」 - 足立政男