稲村雅士

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

これはこのページの過去の版です。キュアサマー (会話 | 投稿記録) による 2022年11月18日 (金) 03:23個人設定で未設定ならUTC)時点の版 (曖昧さ回避ページ茨城へのリンクを解消、リンク先を茨城県に変更(DisamAssist使用))であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。

稲村 雅士(いなむら まさし、1943年4月20日[1] - 2020年2月20日[2])は、群馬県出身の元競輪選手日本競輪選手会群馬県支部所属[1])。日本競輪学校第16期生。59歳まで現役を続けた。息子に同じく競輪選手の稲村成浩(69期)[3]稲村好将(81期)がいる。

来歴

群馬県立太田高等学校中退。その後、日本競輪学校第16期生となる。同期に元東京で後に茨城へ移籍する工藤元司郎がいる。1962年7月29日[1]平塚競輪場でデビュー(4着)。同年8月25日に初勝利を挙げる[1]。全盛期となる年代において、同県選手である福島正幸田中博木村実成らとともに「群馬王国」の一翼を担った。

1966年11月1日に行われた第20回日本選手権競輪決勝(優勝は宮路雄資)をはじめとして、特別競輪(現在のGI)決勝戦における2着が8回ある。そのため、「万年2着」と揶揄するマスコミも現れたが、1971年高松宮賜杯競輪を完全優勝で制し、悲願の初タイトルを獲得。また、オールスター競輪としては3年ぶりの開催となった第15回大会(大垣競輪場)も制した。

さらに特筆すべきことは、息子である成浩が2001年の日本選手権競輪(松戸競輪場)を制し、松村憲松村信定父子以来となる、史上2例目の父子GI制覇を達成したことである。しかし、成浩が日本選手権を制した翌2002年7月31日、選手登録削除されて引退した。

通算戦績2545戦625勝。

主なタイトル歴

脚注

注釈

出典

  1. ^ a b c d 競輪打鐘読本、149頁。
  2. ^ 2020年2月21日上毛新聞おくやみ欄
  3. ^ 競輪打鐘読本、148頁。

参考文献

  • 『競輪打鐘読本 バンクの"鬼"たちが叫びまくる!』宝島社〈別冊宝島343〉、1997年。ISBN 978-4-7966-9343-1 

外部リンク