競輪選手

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競輪選手(けいりんせんしゅ)とは、公営競技競輪において、賞金を獲得するプロの選手である。

選手数は、日本のプロスポーツとしては最大規模の3,300名程度にのぼるが、相次ぐ競輪場の閉鎖、団塊の世代選手の大量引退、競輪学校の年一回入学化等により漸減傾向にある(2006年12月末で3,598人、2008年2月で3,531人、2009年5月で3,497人、2010年10月で3,312人、2011年10月16日現在で3,284人)。現在は選手の実力に応じてS級とA級の二層(下述)に区分されており、トップレベルの選手になると年間に1億円以上の賞金を稼ぐ者も存在する。

目次

[編集] 競輪選手になるには

競輪選手になるためには、日本競輪学校に入学し、国家試験である選手資格検定に合格する必要がある[1]。その資格検定合格後に都道府県いずれかの選手会に所属することで選手登録され、晴れて競輪選手となれる。

日本競輪学校の受験方法・在校時の生活などについては、日本競輪学校の項目に詳しい記述がある。

[編集] 競輪選手の生活

まず、JKA(旧・日本自転車振興会)より斡旋通知(各競輪場からのレース参加要請)を受ける。その時点で「参加」「不参加」の意思表示をしたのち、参加の場合は斡旋された競輪場へ前検日(開催前日)の指定時間まで赴く。その日のうちに身体・車体など所定の検査を受けて「異常なし」と判断されれば、競走に参加できる。

競走の公正確保(八百長防止)の観点から、前検日に競輪場入りしてから帰宅するため競輪場を離れるまで[2]、選手全員が競輪場併設の選手宿舎[3]に隔離状態にされ、外部との接触や連絡はたとえ身内でも一切禁止となり[4]携帯電話や通信機器なども前検日に競輪場に必ず預けなければならない[5][6]

選手宿舎は、12畳1室で4人相部屋となっている。選手の宿舎内での生活は、基本的に、食事・風呂・トレーニング・同室の仲間との会話・・・が殆どであり、藤本博之によれば、「食事と仲間との会話ばかり」とのこと[7]。この宿舎内での選手の生活については、競輪業界に題材をとった漫画『ギャンブルレーサー』などに詳しい描写がある。

基本的には開催初日から最終日まで毎日1走[8]し、帰宅の際、競輪場から賞金・手当を支給される。ただ、レースで失格処分を受けたときは、開催途中であってもその時点で競輪場から斡旋・参加の契約を解除され、競輪場から“追放”され即日帰郷となる。

競走のない日は、主に非開催日の競輪場や街道で練習を行ない、次の参加レースに備える。この生活を月に2 - 3回ほど繰り返しているが、競輪は基本的に365日全国どこかの競輪場で開催され、お盆正月には多くの開催が集中するため、競輪選手にお盆や正月はあってないようなものである[9]

[編集] 競輪選手の練習

競輪選手は基本的に師弟関係や先輩後輩などの集まりでグループを組み、集団で練習を行うことが多い。練習内容は自転車競技選手と大差なく、競輪場自転車競技場において周回走行やダッシュを繰り返すが、『持久力をつけるため』や『身近に競輪場など練習できる場がないため』という理由で、街道を練習の場として活用する選手も多い。

また近年は自転車だけでは鍛えられない部分を補うためにウエイトトレーニングなどを行う事が一般的になっており、選手の中には自費でウエイト機材や自転車用ローラー台などを設置した「練習小屋」を自宅の敷地などに造成する者もいる。

[編集] 競輪選手の収入

選手の収入は競走での賞金に依るものだが、レース毎、着順毎に賞金が定められているため、当然にGIレースの決勝戦ともなると、賞金総額が数千万単位と格段に大きくなる。しかし途中棄権の場合は9着賞金(棄権が自分1人の場合)から20%がカットされ、失格になった場合はそのレースの賞金は支払わない。

賞金の最高額はKEIRINグランプリ1着の1億円(副賞込みの金額)であり、最低額は賞金基準での1号地競輪場におけるFIIのA級チャレンジレースでの5レーストーナメント初日予選9着の29,000円である(2011年度現在)。この他、額は多くないが、レース中に雨や雪が降れば「(通称)雨敢闘手当」、正月三が日に競走に参加すれば「(通称)正月手当」(実際には年末年始の特定開催となる)が支給される。また、これ以外に失格・棄権関係なく「競走参加手当」(日当)および競輪場までの「交通費」が支給される。

これらはかつては全て選手個々に現金で支給されていた。従って当時は窓口に札束が大量に並べられることも珍しくなかったといい、実際吉岡稔真は『別冊宝島』の企画で植木通彦と対談した際[10]、自宅近くで行われる競輪祭において、「いつも賞金の札束をそのまま車のトランクに積んで帰っている」と語ったことがある。ただ大量の現金を持ち歩くことは無用心でもあるので[11]、最近は殆どの選手が銀行振込での受け取りを選んでいる。

各競輪場の賞金は前年度の売り上げにより翌年度のレース毎の賞金支給額が変更されるため(事前に決定されるGIなどのグレードレースの賞金は除く)、同じグレードのレースでも競輪場によって支給額が異なることが多い。このため近年の売り上げ減少を受けて賞金支給額が低ランクとなる競輪場が年ごとに増加しており、この影響から選手全体の平均獲得賞金額も減少している。ここ10年間では獲得賞金額の年間平均は1,000万円以上あったものの、2011年は大幅にダウンし888万円となった[12]。また、2011年における年間獲得賞金額1,000万円以上の選手は782人に留まり、過去30年間で最低となった(最多は1998年の3,196人)[12]。また、最上位のS級S班9人だけは平均1億625万円である一方、最下位のA級3班では平均592万円であり、上位選手と下位選手の格差は大きい[13]

なお、オリンピックでは、アトランタ大会から自転車競技にプロである競輪選手の参加が認められたこともあり、以後大会毎に代表に選ばれた選手は、メダル獲得を目指して合宿を張るためオリンピック開催の数ヶ月前から通常の競走を欠場した上で参加している。欠場中は特別な配慮がなされ、規定が定められて一定の収入補償がなされている。特にメダルを獲得した場合は補償と共に報奨金も支給され、アトランタで銅メダルを獲得した十文字貴信には5,000万円が、アテネ大会で銀メダルを獲得した長塚智広井上昌己伏見俊昭には各4,000万円が、北京大会で銅メダルを獲得した永井清史には4,300万円がJKAなどからそれぞれ支給された。

[編集] 競輪選手のペナルティ

競輪選手は競走において短期間に多くの警告を繰り返し受けると、ペナルティとして科される違反点数が累積していき、特に失格については級班別審査(格付け)においてもマイナス点が与えられ不利になる。

一定期間の累積違反点数が90点以上に達した場合には、関係団体(実際は選手会)から、訓練への参加通知が届き「特別指導訓練」に参加しなければならない。実施場所は日本サイクルスポーツセンターで期間は5泊6日制で、受講費6万円を自腹で支払い当訓練に強制参加させられる。その内容は競走参加中と同様に携帯電話や電子機器の持ち込みが不可(預かり)となり、飲酒も厳禁で、決められた時間や範囲以外の外出も禁止になる。

また直近4ヶ月間の累積違反点数が120点以上になると、JKAの規程により『あっせんをしない処置』(以下「斡旋処置」)という処罰の対象となる場合もあり、適用されると基本的に120点以上が1ヶ月、150点以上が2ヶ月、180点以上が3ヶ月といった間で出場への斡旋が行なわれないことになり、これは一定期間実戦から遠ざかることをそのまま意味している。なお競走における失格についても内容によってはこの措置が適用されることもある。

これとは別に、競走における失格の内容や、私生活において特に悪質な行為に及んだと判断された選手については『あっせん停止』(以下「斡旋停止」)という厳罰が下される。これは最短1ヶ月から最長1年の期間で斡旋措置と同じ処分を受けるが、停止期間が過ぎた後もKEIRINグランプリなどの特別競輪への参加や追加斡旋を受ける権利などが一定期間取り消される。

なお、特に違反点数を累積させた選手や斡旋停止に処された選手については「お寺行き」と呼ばれる特別な訓練が課せられる。これは競輪の公式ホームページではそこまで語られていないものの、上述した漫画『ギャンブルレーサー』などで詳しい描写がなされている他、チャリロト公式ホームページでは語られる[14]などしており、事実上公然のものとなっている。この「お寺行き」が命じられた場合には、京都府宇治市黄檗宗大本山の萬福寺まで赴き、寺の施設において5泊6日の厳しい禅寺の修行を済ませなければならない。期間中は座禅を組まされたり周辺の掃除などを課せられるため練習は全く行えないことから、選手からも恐れられている。

特別訓練や斡旋処置および斡旋停止などの処分対象になると、その間の収入が途絶えてしまう。また、練習不足の他にもレース勘の維持などという面や、体調管理にも悪影響を与えるため、競走への復帰後もしばらくの間は成績下降などの「後遺症」が現れることも少なくない。なお特別指導訓練の対象選手は、その累積違反点数と共に一定期間毎に競輪公式ホームページで一覧で公表され、斡旋停止の対象選手についてはJKAが広報などで公示する。

その他にも競走参加中における競輪場からのペナルティもあり、無断欠場による費用請求、契約解除による強制欠場、中長期の斡旋停止または拒否などがある。いずれの場合も内容はJKAに報告され、改めて全体的な処分が検討されることになる。

[編集] 選手のクラス分け

  • 競輪選手は実力に応じて大きくS級、A級の2つのクラスに分けられ、さらにそれぞれの級の中で3班のクラスに分けられる。
  • 日本競輪学校卒業者、即ち新人選手はA級3班からのスタートとなり、競走得点によって上位班やS級入りを目指す。
  • 選手の所属クラスはレーサーパンツの色によって判別できる。なおラインに入っている星の数は、班にかかわらず7つと決まっている。
S級S班…赤のレーサーパンツ、横のラインは黒
S級S班以外のS級…黒のレーサーパンツ、横のラインは赤
A級…黒のレーサーパンツ、横のラインは緑(以前は星なしの白の3本線)
B級(現在は廃止)…黒のレーサーパンツ、横のラインは青(以前は星なしの白の2本線)
国際競輪に出走する外国人選手…赤のレーサーパンツ、横のラインは虹色
  • S級とA級の入れ替えは、毎年半年間(1 - 6月、7 - 12月)の競走成績を反映して、S級の下位とA級の上位各200人ずつが自動昇降格される。またS級とA級の班分けは前々期(上半期は前年の1 - 6月、下半期は前年の7 - 12月)の競走成績を基に決定される。
  • A級3班で一定期間内の成績が連続して相当な下位となった場合には、代謝と称し強制的に選手登録消除の対象とされ選手生活を継続する事が出来なくなる[15]、過酷な競争社会である。過去の名選手でも高原永伍などは、この代謝で引退を余儀なくされるまで現役生活を継続した。

[編集] S級特別昇級(昇班)制度

A級1班およびA級2班のレーサーが3開催連続して「完全優勝」(全ての出走レースにおいて1着となること、俗称:ピンピンピン)を達成した場合は、級班選考期間に関わらず即時に昇級される(通称「特進」または「特昇」。ちなみにA級3班の選手が3開催連続で完全優勝した場合はA級2班に特別昇班する)。また、レインボーカップシリーズという、S級特別昇級9人の枠を争うシリーズが行われている。

[編集] 仕組み(A級1・2班戦、A級3班戦ともに単発レース)

  • A級1・2班戦・A級3班戦とも、期の初めの3ヶ月(前期1 - 3月、後期7 - 9月)の競走成績上位9名ずつが期の終わり

(前期6月、後期12月)に単発で行われる競走に出走し、1〜3着までが上位級班に特別昇級(特別昇班)する。

  • 原則としてGIII開催の中で実施する。

[編集] 特別昇級の特典

特別昇級してから2期の間(1年間)は降級および降班しない。昇級は可能となっている。なおレインボーカップから昇級した者は、この期間を3期とする(つまり期末に特別昇級してしまうため、その期間を算入している)。

[編集] 歴史

競輪選手のクラス分けは、創生期はA級・B級・C級による3層制であったが、間もなくA級・B級の2層制となり、やがて2層7班制(A級1 - 5班、B級1・2班)に変更され、その後1983年に行われた競輪プログラム改革構想(通称KPK)により、S級・A級・B級の3層9班制(S級1 - 3班、A級1 - 4班、B級1・2班)に移行した。そして2002年4月よりS級・A級の2層5班制に移行し現在に至っている。

またKPKから76期(1995年デビュー)までは、新人は当初新人のみで構成される「新人リーグ」で半年間競走を行い、その結果によってA級1班からB級2班に格付けされていたが、その後はB級2班(2002年以降はA級3班)格付けで通常のレースに参加する形態となった。(KPK以前も最下級からのスタートであった)

なお2008年前期よりA級3班はA級1・2班から分離され、基本的にA級3班のみの中でトーナメントが行われ、レースの組み合わせもA3同士のみになる。また特別昇級制度も分離され、A級3班においての3場所連続完全優勝はA級2班への「特進」となる(特別昇班)。

またS級1班の上位格付けとして『S級S班』が存在する。これはKEIRINグランプリ出場者9名に適用されるいわばトップ中のトップの選手のみが入れる特別ランクで、特別競輪の出場権利・レース斡旋の希望選択・一定期間における公休などの優遇措置が与えられる。

[編集] S級S班の概要

(GIの特別競輪優勝者・世界選手権自転車競技大会個人種目優勝者・オリンピック自転車競技個人種目メダリスト・競輪祭終了時点での年間獲得賞金上位者)
  • 除外規定
    • 競輪グランプリ選考委員会でGII以上の特別競輪の選抜方法による申し合わせの除外規定で選考除外となったり、また審査期間中において「斡旋規制(保留)」など、S班に所属するには不適当とされる選手、また既にS班に所属している選手においても、調整委員会で不適格とみなされた選手も除外対象とし、S班所属選手がそれに抵触した場合、及び次年度にS班に残留できなかった選手はS級1班への降格となる。
  • 適用期間 12月27日から次の年の12月26日までの1年とする
  • 優遇処置
    • 日取り調整会議の状況により既に開催が決まっている期間は斡旋計画を提示。それ以外の開催に希望する場合には「希望斡旋届け」の提出が出来るが、本人の希望に必ずしも添えない場合もある。ただし予め出場を希望したレース以外でも状況によって優先斡旋を行うことがある。
    • GP以外の特別競輪に優先的に出走できる権利が与えられる。
    • GIIIについては適正な出場間隔を考慮して、また斡旋計画の提示に基づく本人の希望を考慮して出走できるレースを調整できるようにするが、当該選手の出身地・所属地の都道府県に関しては必ず出走することが義務付けられている。
    • F1(一般普通開催のS級シリーズ)の場合も適正な出場間隔を考慮して、また斡旋計画の提示に基づいた本人の希望に充分配慮して出場レースを決めるように出するが、国際競輪等の特別企画レースと重複した場合はそれを優先する。また最低年1回は当該選手の出身地・所属地の都道府県で行われる地元開催のレースに出場することを義務付ける。
  • オフ期間 年1回・1ヶ月間まで。
  • 公共交通費用にかかる特別料金支給
  • S級レース(F1以上、GP除く)の開催において特別選抜予選にシード出場が約束される。
  • ファンサービスの一環としてPR活動やファンの集いへ出演する他、S班用のユニフォームを用意する。

当初は「選ばれた後にS班の資格を失くした場合であっても、追加補充は行わないことにする」という規定であったが、2009年は同年1月25日にS級S班であった手島慶介が急逝したため1名の欠員が生じ、5月開催の「SSシリーズ風光る」において出場人数が揃わなくなることから、3月4日に「選出後にS級S班の資格を失効する選手が生じた場合、追加選出を行うことができる」[16]と規定が改正され、これにより選考時の次点であった岡部芳幸が5月1日付で2009年のS級S班に追加選出された。

なお2011年までS級S班は18人であったが、2012年以降は前年のKEIRINグランプリ出場者のみ9人がS級S班格付けとなる[17]

[編集] 競技で活躍した競輪選手

競輪選手も自転車選手という側面を持つことから、各種の自転車競技に参加している選手もいる。長い間プロである競輪選手の自転車競技における頂点は世界選手権自転車競技大会であったが、アトランタオリンピックより自転車競技がプロアマオープンとなってからは、競輪選手もオリンピックに出場し活躍するようになった。

[編集] 世界選手権自転車競技大会で優勝した競輪選手

[編集] オリンピック自転車競技に出場経験がある競輪選手

以上は競輪選手として選手登録される前にアマチュア選手として出場したものである。

[編集] その他のオリンピック競技で活躍した競輪選手

高校・大学時代から他の競技で活躍した選手が競輪選手に転向する例も多いが、中には他競技でのオリンピック出場者が後に競輪選手へ転向した例もある。

[編集] パラリンピックで活躍した選手

[編集] 政治家

引退後ないし、選手活動を継続しながら政治家となった競輪選手もいる。

[編集] 選手寿命

競輪選手は特に選手寿命が長いことで知られている。過去には68歳の競輪選手がレースに出走したこともあり、60歳を超える競輪選手は過去に何人も存在している(2011年11月18日現在は2名)。また50代の競輪選手はそれほど珍しいものではない。

最近では2004年に当時45歳の競輪選手・松本整高松宮記念杯競輪を優勝し話題となる(直後に引退)。また1955年生まれの竹内久人(2007年7月に引退)とその長男である竹内公亮1984年ロス五輪で銅メダリストとなった坂本勉(2011年6月に引退)とその長男である坂本貴史は、共に親子S級在籍を経験している(竹内親子は2006年、坂本親子は2010年 - 2011年上半期)。

このように競輪選手の寿命が長い原因としては、競技の特性が上げられる。競輪は他のスポーツと違い、骨や関節に負担がかかりにくいと言われる。陸上競技をはじめ、野球サッカー相撲等の選手は筋肉より先に肘や膝などの関節部を悪くしてしまう事が多い。その為に30代で限界がきてしまうのであるが、競輪の場合は関節に負担がかかりにくい。よって落車により体を痛めない限り体への負担が軽いのである[18]

また、年をとるとハイパワーでの持久力が極端に減る。このことも他のプロスポーツでは致命的なハンデとなっている。しかし競輪の場合、追い込み戦法と呼ばれる戦法があることで他のプロスポーツと異なるアドバンテージを持っている。これは最後の直線までは自分とラインを組んでいる選手の後ろを回り、風除けにすることでハイパワーでの持久力を必要としない戦法である(風圧を受ける先頭選手の半分以下の消耗度で走れる[19] )。従って、かなりの選手は年齢をとると追い込み戦法に変わることが多い。

このことは逆に選手の新陳代謝を阻害している側面も指摘されており、実際近年トップスターの座にいる選手の中には10年前からトップスターだった選手が何人もいる。2005年度のオールスター競輪の決勝では10 - 15年前が全盛時の選手が数人居たため、“タイムスリップしたようだ”などと揶揄された。

なお2011年11月現在の現役最年長選手は、1951年5月14日生まれの井狩吉雄

[編集] 日本競輪選手会

  • 競輪もプロ野球選手同様、日本競輪選手会(以下 選手会)という組織が存在する。非常に強い権限を持っており、事実上、選手の雇用主としての側面もある。
  • 競輪選手は選手会の全国の支部に所属しなければならない。そうしないと競走の斡旋をJKAから拒否される。
  • 選手へのペナルティを参加自粛要請という形で、JKAとは独立して行うこともあり、しばしば二重制裁と言われる。
  • また、競輪とは関係ない独自の事業を行って、選手会への積立金を立て、会員に還元する試みを近年行っている。
  • 選手会の幹部は競輪選手ではあるものの、競走へはあまり参加していない。これは選手会の業務が忙しいためと言われる。そのため何年も競走へは参加していない幹部も多い。しかし特別に登録消除(引退)にはならない規則となっている[20]

プロ野球の選手会と違い、競輪の選手会はマスコミやファンにはあまり人気があるとは言えない。これは1989年KEIRINグランプリを、賞金の値上げ闘争の代償に中止へ追い込んだことが始まりとされる。この際に「ファン無視」と当時のスポーツ新聞は大々的に書きたてた。その後も出走ゲートに選手が揃ったにも関わらず、先頭誘導員に出走拒否命令を下し、開催が中止になったこともある。

さらに松本整元選手との争いも有名である。松本整が現役時代に引退前年のレースで失格を連発した際に、選手会が先述の「二重制裁」を加えたことついて、松本整は「選手会は僕を守ってくれなかった」と反発した。結局、松本整はそれまでのS1からいきなりA級に降格を決められたことや、自身を守ってくれなかった選手会に反発し、2004年高松宮記念杯競輪優勝を花道に引退した。

[編集] 女子競輪選手

[編集] 概要

かつては女性選手だけの競輪「女子競輪」が開催されていたことがあり、女性のプロ競輪選手も多数存在した。代表的な女子選手として、奈良田中和子神奈川渋谷小夜子山口畑田美千代などがいた。

1948年(昭和23年)11月、小倉競輪場での競輪初開催と同時に女子競輪もオープンレースとして開催され、翌1949年10月に開催された第2回全国争覇競輪川崎競輪場)にて車券発売の対象となる正式レースとなった。

女子競輪においても特別競輪(現在で言うGIレースに相当)は開催された。上記の全国争覇競輪の他に高松宮妃賜杯競輪全国都道府県選抜競輪競輪祭にて女子の部が開催されていたが、1957年の第12回全国争覇競輪の女子の部が直前になって突如中止されて以降は高松宮妃賜杯・全国都道府県選抜のみとなった(競輪祭も1958年の第4回大会以降では実施されず)。

当初は女性選手が女性誌等で「ミス・ケイリン」と取り上げられるなど、多方面に話題を提供したこともあった女子競輪だが、次第に人気は下火となり、多くの競輪場が女子競輪の開催に及び腰となっていった[21]。結果的に女子競輪の人気は長続きせず、1964年(昭和39年)9月8日に開催された名古屋競輪場でのレースが最後となり、女子競輪の歴史は幕を閉じた。

最盛期の1952年(昭和27年)には669名もの女性選手が在籍したが、体力の限界や結婚などで引退する者が相次ぎ、1959年(昭和34年)には394人、1961年(昭和36年)には294人にまでその数を減らしていった。また、デビュー当時18 - 19歳だった彼女らも徐々に高齢化し、晩年には「ミセス・ケイリン」とまで揶揄される有様であった。そして1964年8月、末期まで残った230人の女子選手全員の登録消除が決定し、10月31日付けで選手登録消除となり、全員が引退した。

なお、女子選手が男子選手と結婚[22]し、その子供も競輪選手になったという例[23]もある。

[編集] 女子競輪衰退の理由

女子競輪が衰退していった理由としては

  • 男子と比べれば選手の数が少ない上に、元々選手間での力の差があり過ぎてレースが堅く収まってしまうことが多く[24]、ファンから見てギャンブルとしての魅力が乏しかったこと。
  • 女子の強豪選手は上記の田中や畑田のように西日本に多かった一方で、比較的女子競輪の人気が高かったのは南関東など東日本であり、施行者側も人気強豪選手を呼ぶには多額の交通費を支払うことになるため、経費面がネックになっていったこと。
  • 「家庭の都合」などを理由に競走不参加を続ける不真面目な選手も多く見られ、施行者側としても選手確保に頭を悩まされたこと。
  • 元々男子と比べて賞金体系が低く設定されていたことや、女子競輪の開催自体が減少したため、収入に結びつかない選手が増えたことで競輪選手に対する魅力が薄れ、新たに競輪選手を目指そうとする女性が減少し新陳代謝が進まなかったこと。
  • 圧倒的な強さを誇ったスター選手の田中和子らの引退と、それに代わる新しいスター選手を輩出できなかったこと。
  • 男子は競輪が開始される以前より、新聞社等の主催による自転車競技大会が盛んに行われるなど、「アマチュア選手」として、それなりの下地を積んだ選手が少なからず入ってきたが、女子は当時、自転車競技そのものに取り組む選手が皆無同然だったため、ごく一部の選手を除いて、最初から選手の質の維持に問題があったこと。
  • 女子プロスポーツ選手が本格的に注目されるようになったのは、ゴルフの樋口久子や、ボウリングの中山律子須田開代子、プロレスのマッハ文朱が出現した昭和40年代以降。女子競輪が存在した頃はまだ、日本女子スポーツ界は、オリンピックを頂点としたアマチュアスポーツ全盛時代であり、一定の年代が訪れると、概ね結婚のため現役を退いた時代でもあった。したがって現在のように、アマチュアスポーツからプロスポーツへの転身がほとんど考えられていなかった時代であり、高い能力を有する選手の流入に限界があったこと。

などが挙げられる。

[編集] 女子競輪「復活」への兆し

21世紀に入って、弥彦松戸など一部の競輪場で、「レディース・ケイリン」と題して女子競輪が行われたが、これは主に地元で集められた女子選手による模擬レースであり、ファンサービスとしてのアトラクションの一部のため、実際に同レースは車券発売の対象とはなっていない。また、上記「レディース・ケイリン」とは別に、佃咲江和田見里美の2人が北京オリンピックに出場したことを契機に、女子自転車選手の強化の一環として、2008年2009年にそれぞれガールズケイリンが行われた。

現在では世界自転車選手権において2002年よりケイリン女子が実施されていることや、オリンピック種目としてのケイリン女子正式採用をにらみ[25]、昨今の競輪の売り上げ低迷打開策の一環として、2009年11月にJKAより2012年3月から女子競輪の開催を復活させることが発表された[26][27]

[編集] 女子競輪の要項

JKAは当初のスケジュールとして、2010年5月に女子第1期生となる日本競輪学校入学者(定員35名)を募集し、合格者は2011年1月から12月まで同校で養成され、2012年3月にデビューの予定としていたが、競輪場廃止に起因する男子選手の応募要綱変更などがあったため正式の発表がずれこみ、2010年9月30日の記者会見で女子選手の応募要綱等が発表された[28]

発表によると女子選手の募集および養成は、2011年4月に日本競輪学校へ入学する日程で試験などが実施され、2012年7月のデビューで女子競輪を開始する予定。競走は、FI・FII開催中に全日2Rを実施し、ルールは7車立てでUCIの競技ケイリンが準拠となる予定。なお賞金については検討中。

2011年2月25日、1次・2次にわたった日本競輪学校入学試験の合格者が発表され、18歳〜48歳の36人が合格した。女子第1期生となった36名は同年5月9日に競輪学校へ入学した。女子競輪の愛称は「GIRL'S KEIRIN(ガールズケイリン)」と発表された[29]

[編集] その他・特徴

  • 競輪の歴史は半世紀を超え、競輪選手の数は創生期には男女合わせて6000人弱、近年でも3000人台の数字を保ってきた。このため、競輪選手には社会の縮図としての側面が見受けられる。
    • 具体的に言えば、二世選手、兄弟選手、珍名・難読名の選手、元教師・元警察官等の転職歴がある選手、異分野のプロスポーツから転向してきた選手、家族に著名人がいる選手、何らかの犯罪の容疑者として逮捕される選手、より良い環境を求めて地元から遠方へと本拠地を移転する選手、など様々である。
    • 収入の安定や引退後の生活手段の確保などを目的に、アパートなどの不動産運用や飲食店経営などの副業を手掛ける選手も珍しいものではない。特に飲食店を経営している場合には、競走に参加していない日には競輪の練習の傍らオーナーとして自ら店頭に立ち集客に勤しむ選手も見られる。なお、この種の副業は夫人など家族の名義で行われる事も多い。
    • 競輪選手はその仕事の性質上、通常ならば毎月3分の1程度は競輪開催への参加の為に家を空ける事になり、基本的に全検日に競輪場に入ってから最終日の自身が出場するレースの終了までは、競輪場及び宿舎の隔離された環境下に置かれて自宅・家族との連絡も緊急時を除いて一切許されない。その為、職業上のメリットやデメリットについてはいわゆる旅商売にも通じる一面が垣間見られ、同様に旅商売とされる職種でも時折聞かれる様な、家族の不貞行為や子女の非行などといった家庭面での様々な問題に悩まされたり、その種の家庭内問題にまつわる噂が立つ選手も見られる。
    • 過去には選手自身が自転車競技法違反の容疑で検挙された事例もあったが、ここ20年ほどは発生していない。また、選手会の力が非常に強いため、自転車競技法に関する事例を除けば悪質・凶悪な犯罪でもない限り、逮捕されてもすぐに登録消除にはならないようである。もっとも、1年以上の長期の出場停止の処分を科された例はある。
  • ごく初期の競輪選手は、選手登録に際して審査が無かった為、誰でも選手になる事が出来た。自転車競技の経験者が多かったが、全く未経験の者もおり、玉石混淆の状態であった。従って能力差も大きく、適性を欠く選手や不正を働く選手も見られ、各地で発生した騒乱事件の原因ともなり、一時は賭式についても6枠制から4枠制への変更を余儀なくされる状況に追い込まれた。ヒロポンなどの薬物に手を出し、中毒死した選手も存在する。この事は社会的な問題となり、1950年9月より適性審査や選手資格の検査基準を導入した結果、資質に問題のある選手は淘汰されていった。
  • 昭和30年前後に、進駐軍のアメリカ人伍長が、休暇中に競輪に参加した記録がある。
  • 競輪選手になる前は、大半の者が高校生または大学生で、社会人であっても多くは20代半ばまでの若者であり、学生スポーツや実業団などでアマチュアで自転車競技を経験している者、トレーニングの一環として自転車競技と同様の練習を行っていた者も多い。中には全く異分野のアマチュアスポーツ・プロスポーツから転向を志す者も見られる。適性と能力次第ではあるものの、特にプロスポーツとしてのシステムが無いスポーツの有力選手にとっては、その運動能力と脚力を活かせるプロスポーツ選手としての就職口として、競輪は一つの大きな受け入れ先という側面を持っている。
    • 上述したスピードスケート系種目に代表される様に、プロスポーツとしてのリーグやツアーが無く、スポンサーから選手活動の為の経済的支援を受ける事実上のプロとしてのシステムがオリンピック日本代表やその選手強化のシステムと密接に結びついており、オリンピック日本代表選手やその候補としての活動の終了がそのままその分野での事実上のプロ活動の終焉を意味する競技では、世界トップレベルの実績を残した日本代表選手がオリンピック終了後や強化指定の解除後に競輪への転向を目指すことが往々に見られる。
    • 自転車競技経験を全く持たない者としては、プロ野球の選手を経験した後に競輪選手へ転向した者がいる[30]この他、学生野球陸上競技ラグビー大相撲オートバイモトクロスの経験者などが競輪選手となった例がある。
    • 最も変わった例としては、阿部康雄選手のように、素人時代に競輪場のイベント「素人足自慢大会」で見事優勝を果たし、それを機に競輪選手を志すなど一風変わった経歴の持ち主もいる。なお日本競輪学校では自転車競技経験のない者を対象にした適性試験も実施しているが、選手を志し短期間で自転車の乗り方を覚えて通常の試験を受ける者も多い。その典型例は吉岡稔真であり、競輪学校に入学するまでスポーツ選手としての経歴は皆無であった。
  • 競輪選手は落車によるケガがつきもので、これはS級のトップレーサーであっても例外ではない。とりわけ、鎖骨の骨折については「職業病」として語られるほどで、骨折した選手への励ましなどで「競輪選手は鎖骨骨折を克服して初めて一人前になる」などという言葉が聞かれる時も珍しいものではない[31]
    • ヘルメットなどの防具が整備される前は、競走中の事故による殉職者や、大怪我を負って引退を余儀なくされる事故が、最大年間10件ほど発生していた。現在ではヘルメットの改良やプロテクターの装着などによって、創生期に比べれは発生数こそ大きく減少したものの、それでも数年に一度ほど発生している。
    • 他方で、街道での練習時に何らかの事故に遭遇する場合もあり、自動車も走る公道で練習することから競輪選手が交通事故に関与してしまうケースもある。むしろ現状は競輪場内よりも街道での練習中に交通事故で死亡する事例の方が多くなっている。
    • なお現在は怪我などによる長期欠場期間は最長3年以内と決められており、それまでに復帰できない場合は登録消除となり、選手資格を失う[32]

[編集] 脚注

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  1. ^ 要は選手資格検定に合格すれば良いので、形式上は日本競輪学校に入学する必要は無い。ただ入学せず資格検定に合格した人を聞かない様に、資格検定の受験のみで合格することは非常に厳しいため、事実上はまず日本競輪学校に合格・入学することが選手となる為の大前提となる。
  2. ^ 通常は4日間ないし5日間。最長は日本選手権競輪開催期間中の7日間。
  3. ^ 岸和田競輪場のように、競輪場から少し離れた場所に選手宿舎を設けている例もある。岸和田競輪場の場合、選手は専用のバスで競輪場と選手宿舎を移動する。
  4. ^ 近親者の急逝など余程の特別な事情が発生している場合などは例外だが、その場合は規定に従い施行者側職員が通話に立ち会うこととなっている。
  5. ^ 参考に岸和田競輪場の場合、『携帯電話』、『パソコン』、『トランプ』、『通信機能の付いたゲーム機』(ニンテンドーDSなど)、『飲食店からの出前』は宿舎内持込禁止となっている。
  6. ^ 公営競技全般において、もし参加中に所持していることが発覚すれば、一定期間の斡旋停止など厳しい処分が課せられ、使用が発覚した場合には更に重い処分となり、過去には手島慶介などがこの処分を受けている。またオートレースでは参加中における通信機器の常用が発覚し選手登録消除(一般にいう解雇処分相当)に処せられた選手がいる。
  7. ^ 愛の修羅バラ!2009年12月6日放送分より。
  8. ^ 競艇競馬などと違い1日に2走以上することはない。また、レースによっては休み日を挟む場合がある。
  9. ^ 競輪選手のみならず、競輪場・場外車券売場の管理・運営に携わるスタッフや競輪新聞の関係者なども同様にお盆や正月の休みは無いも同然である。
  10. ^ 別冊宝島343「競輪打鐘(ジャン)読本」に収録。
  11. ^ 実際同対談では、手っ取り早く金を稼ぎたい人間にとって「吉岡を食らわせたほうが早いかもしれない(笑)」と語った植木に対し、吉岡自身「そう考える人はいるはずですよ」と答えており、当時から選手間では強盗に襲われる危険性について認識していたようである。
  12. ^ a b 取得賞金高別人員表(1千万円以上) (PDF) - JKAプレスリリース
  13. ^ 2011年級班別賞金総額及び平均取得額 (PDF) - JKAプレスリリース
  14. ^ ケイリン専門用語辞典「ケイリンガル」 - チャリロト公式ホームページ内
  15. ^ オートレースにも同様の代謝制度が存在する。また競艇にも「選手出場あっせん保留基準第8号」(通称・魔の八項)という成績不良による引退勧告制度がある。
  16. ^ JKA2009年3月13日公示・S級S班の追加選出について
  17. ^ S級S班の見直しについて(2011年1月26日)
  18. ^ 但し、自転車に乗車する姿勢から腰には負担がかかりやすく、腰痛に悩まされる選手は多い。また回転の負担で特に膝や足首など脚の関節を痛めると現役続行が難しくなる。
  19. ^ 例えばS級の追い込み選手の場合、時速60数キロを維持できる距離が2倍以上になる。バンク半周⇒バンク1周以上など
  20. ^競輪に係る業務の方法に関する規程』第83条2(1)。現理事長の富原忠夫(徳島・43期)も近年は競走に出走しておらず事務に専念している。
  21. ^ それでも西宮競輪場甲子園競輪場などのように、晩年でも積極的に女子競輪を開催した競輪場もあった。
  22. ^ 田中和子は高橋恒と、畑田美千代は石村正利と結婚した他、いくつかの例がある。
  23. ^ 中野光仁夫妻の子である中野浩一も、その中の一人である。また、佐々木昭彦なども同様に父母は競輪選手。
  24. ^ 「競輪50年史」などによると、大概は100円台の配当だったという。逆に本命選手が敗れれば大穴が出る、といった状況で、ファンとしては車券が買いづらかった。特に女性選手の場合、生理などで体調管理が難しい面もあり、当時は予想屋が懇意の客に「今日●●(選手名)は生理だから来ない(連に絡まない)よ」と囁くことも多かったという。
  25. ^ 女子競輪復活の発表後、ケイリン女子が2012年ロンドンオリンピックから正式種目として採用されることが決定した。 ロンドン五輪のトラック種目は男子2減、女子2増
  26. ^ 女子競輪、半世紀ぶりに復活へ! - デイリースポーツ2009年10月2日
  27. ^ 女子ケイリン等に関する検討状況について KEIRIN.JP
  28. ^ 記者発表会(女子ケイリン)の実施について - KEIRIN.JP 2010年10月1日配信
  29. ^ 雑記帳:来年7月復活の女子競輪 愛称はガールズケイリン - 毎日新聞 2011年2月25日
  30. ^ 競輪学校への受験には、第92期生まで受験時点で満18歳以上満24歳未満という年齢制限があったため、転向するにはプロ野球球団を早期に退団する必要があったことから、転向例は僅か数名に留まっていた。だが現在は受験資格が大幅に緩和されたことから、実際に競輪選手へ転向する例が増えている。競輪学校においてもプロ野球球団を退団した元選手に対しては、退団年とその翌年までの2年間に限り受験科目の一部免除を行っている。また2008年11月11日横浜ベイスターズ総合練習場で行われたトライアウトでは競輪学校のブースを設営しており、その知名度も含めて選手として有望な人材の獲得に動いている。
  31. ^ ちなみに、鎖骨骨折が多く聞かれるという点では、競馬騎手にも同様の傾向がある。
  32. ^競輪に係る業務の方法に関する規程』第83条3

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