相良義陽

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相良義陽
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 天文13年2月8日1544年3月1日
死没 天正9年12月2日1581年12月27日
改名 万満丸(幼名)、頼房、義頼[1]、義陽
別名 四郎太郎(通称)
戒名 玉井院越江蓮芳
官位 遠江守、従四位下、修理大夫
氏族 相良氏
父母 父:相良晴広、母:内城(上田織部允の娘)
兄弟 義陽頼貞、亀徳(島津義弘室、上村長陸室)
正室:千代菊相良義滋の四女)
側室:了信尼(豊永長英の娘)
虎満、千満、千代菊(母と同名)、
忠房頼房長誠
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相良 義陽(さがら よしひ / よしはる[2])は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将肥後国戦国大名相良氏当主。肥後人吉城主。

生涯

幼少時

天文13年(1544年)、相良晴広の長男として生まれる。初名を頼房。

弘治元年(1555年)、父・晴広が死去したため、家督を継承した。しかし、まだ幼少であったため、実権は祖父上村頼興が握っていた。

弘治2年(1556年)、薩摩国大口を併合するため姻戚である菱刈氏菱刈重任と謀り、大口城主の西原氏に重任の妹を嫁がせて栗田対馬を付け、大口城奪取の機会を伺わせた。あるとき西原氏が病床についたのを見計らい重任は80余名の兵を城中に乱入させて放火、西原氏は火中に没した。重任は大口城を頼房に献上、更に伊作島津氏島津忠良からも大口領を割譲され、それ以後は球磨八代芦北の兵1,000を交代で入れ守らせた。

同年、天草で騒乱が起こると、栖本氏志岐氏有馬氏の連合軍に対すべく、天草氏上津浦氏大矢野氏に加勢する為にこちらにも番兵を派兵している。

祖父の死後

弘治3年(1557年)、頼興が死去したため自ら親政を行なおうとしたが、このとき、頼房の家督相続に不満を持っていた叔父上村頼孝が、弟上村頼堅稲留長蔵とともに頼房に対して謀反を起こした。3人は頼房を打倒し相良領を分割支配しようとしたらしいが、謀反は失敗。頼堅は殺害され、頼孝に与した菱刈重任も討ち死に。頼孝・長蔵は北原氏を頼って日向飯野(現・宮崎県えびの市[3]に逃亡。のち永禄2年(1559年)7月29日に士卒700名と共に頼孝が、その後に長蔵も帰参するが、永禄10年(1567年)に共に殺害された。

永禄2年(1559年)、この頃に名和氏により度々八代を攻められるようになり、また5月には、頼孝らの叛乱以降に関係の悪化していた菱刈氏により水俣城が落城する(翌年に天草の上津浦氏の仲介で、水俣内の12屋敷との交換により取り戻す)。更に、8月には人吉奉行東長兄丸目頼美の対立が家中を二分する内紛に発展。頼房を擁立した長兄に対し、頼美は湯前城主東直政日向椎葉の豪族那須祐貞に支援を求めたが獺野原の戦いで敗北。頼美は日向に逃亡し伊東義祐に仕えた。

永禄5年(1562年)、伊東義祐に領地を簒奪された北原氏のために島津氏と盟約し、島津貴久北郷時久と協力して北原氏の旧領回復のために派兵する。相良軍は日向・馬関田城まで兵を抜き北原兼親飯野城に入れることに成功する。しかし翌永禄6年(1563年)に兼親の叔父・左衛門尉が、伊東氏と相良氏を盟約させ飯野から島津氏を追い出そうと謀り、また東郷相模守の仲介を得て、同年の4月14日(『日向記』の日付。『八代日記』は5月14日)相良氏は伊東氏と共に島津氏の大明神城(大明司塁)を落とした[4]。これにより島津氏との関係は悪化する。

永禄7年(1564年)には将軍足利義輝から従四位下修理大夫の官位と「義」の一字が与えられて「義頼」[1]、更に「義陽」と名乗った。この出来事は周辺諸国に衝撃を与え、大友宗麟島津義久室町幕府に激しく抗議をしている[5][6](だがその後も室町幕府に献金は行っていたようで、織田信長が中央で勢力を伸ばして足利義昭を擁立し、二条城修築の費用を諸大名に求めた際には、相良氏の朝廷への貢租7年分に当たる費用を献じている)。義頼から義陽と名乗るようになったのは、天正2年(1574年8月15日から[1]である。

島津との対立~降伏

永禄7年(1564年)2月11日より島津氏の侵攻が開始されるようになる。義陽は菱刈氏と共に対島津氏の最前線である大口城をめぐって何度も戦った(但し義陽自身はこの頃、天草に於ける志岐氏・栖本氏・有馬氏の連合軍との戦い、及び名和氏との戦いの方へ出陣し、奪われていた豊福城を回復している)。永禄11年(1568年)には初栗合戦で島津軍を破るが、永禄12年(1569年)の砥上合戦で敗北、大口城が落城し薩摩における領土を失い、菱刈氏も島津へ降伏した。これを切っ掛けに島津氏は、翌年に東郷氏祁答院氏を降伏させて薩摩統一を果たす。

元亀3年(1572年)の木崎原合戦では伊東義祐と連合して島津義弘を挟み撃ちにする計画であったが、義弘の奇襲によって伊東軍が壊滅したため、慌てて引き返した。天正3年(1575年)には織田信長の依頼を受けた前関白近衛前久が相良氏をはじめ、島津・伊東・大友の諸氏に和解を勧め、連合して毛利輝元を討つ様に説得工作にあたった。伊東氏を滅亡寸前に追い込んでいた島津氏の反対によって工作自体は成功しなかったものの、摂関家の長たる前久の来訪は相良氏始まって以来の大事件であり、感動した義陽は前久に臣下の礼を取り、逆に前久も義陽の朝廷に対する崇敬の純粋さに感動して島津義久に迫って一時停戦を受け入れさせたほどであったという[7]。しかしながら、この和睦には義陽の方が返事を渋っており、義久が前久の要請に従い、起請文を提出した事でようやく実現している[8]

しかし天正6年(1578年)に島津氏が大友氏を耳川の戦いで破ると、大友に与する阿蘇氏への攻撃を開始し肥後へ進出、天正7年(1579年)になると相良氏の水俣城へも戦火が及び、島津義久の猛攻の前に水俣城が包囲され、その後も猛攻が繰り返されたため、遂に天正9年(1581年)、義陽は葦北郡を割譲し、息子の相良忠房や相良頼房を人質として差し出すことで降伏した。

響野原の戦い

降伏した同じ年、島津義久より阿蘇氏攻めを命じられた。義陽は阿蘇氏の軍師・御船城主である甲斐宗運と親友の間柄で、相互不可侵を誓い合っていたため出陣をためらっていたが、島津氏からの再三の督促により、もはやその命に逆らうこともならず、白木妙見社にて宗運と交わした誓紙を焼き捨てさせ、自らの死を祈願して出陣した。このとき島津氏は、義陽の忠誠を信じ、人質の相良忠房を送り返している。相良軍は、阿蘇氏の出城、甲佐城堅志田城に進撃、義陽は守りには向かない響野原{響ヶ原とも(宇城市豊野)}に本陣を敷いた。両城が陥ちたとの報せを受け、宗運は義陽の陣を奇襲、相良勢は壊滅。義陽は退却を勧める家臣の言を無視して、床机に座ったまま敵兵に斬り殺されたという。享年38。後を長男の相良忠房が継いだ。

墓(首塚)は鮸谷{(にべがたに)現・八代市古麓町}に建てられたが、肥薩線開通の折に線路上に被らないよう墓は5 - 6mほど移動され、遺品も人吉に移された。また多良木永昌寺に供養塔がある。

響野原の戦い 別説

相良氏側の通説は上記の如くであるが、甲斐氏の史書『響之原合戦覚書』によると義陽の出兵は偽装であり、甲斐氏、阿蘇氏と謀り島津軍を引き入れ逆にこれを討つという密約があったと記されている。但し、島津氏側でもこれを疑っておりその策に乗らなかったとの記述が『九州記 巻之十二』にあるため、義陽が響野原に出陣したのは島津義久と甲斐宗運の両氏に疑われた苦悩もあったのではないかと『人吉市史』は記述している。

人物

  • 味方の島津義弘も敵の甲斐宗運も義陽の討死の報を受け、悲嘆したとされている。特に宗運は「これで島津氏の侵攻を防げるものがいなくなった。阿蘇家も後数年の命脈であろう」と述べたとされる。
  • 歌道に長じた人物で、神社の参詣の際に和歌を詠んだとする逸話が多く残る。

妻子

家臣

脚注

  1. ^ a b c 南藤蔓綿録』の記述による。但し、池田公一編著『中世九州相良氏関係文書集』に所収された文書では、足利義輝から「義」の字を下賜された以後、永禄10年8月に「義陽」の字を使っているものの、翌月から天正元年9月まで「頼房」と記名、同年10月から「義陽」を使用しており、それまでに「義頼」の名を使用した形跡は見当たらない。
  2. ^ 池田こういち著『肥後相良一族』(新人物往来社、2005年)ISBN 4404032536では、『「よしひ」或いは「よしてる」とも』としている。
  3. ^ 相良氏の史料には薩摩飯野と書かれているが、飯野は日向国であるため誤記。
  4. ^ 伊東氏の史料『日向記』には合力して攻めた(相良側には軍功なし)とあるが、相良氏の史料『八代日記』には、伊東氏が城へと動き落城した 程度の記述しかない。
  5. ^ 相良氏の史料からは島津氏からの抗議の記述は確認できない。
  6. ^ 「義」の字そのものは先々代・義滋も与えられているため 抗議の理由は、相良氏は従五位下が通例であるのに対し、従四位下へ叙任されたことが異例であった為であろうと『人吉市史』は記述している。
  7. ^ 橋本政宣『近世公家社会の研究』(吉川弘文館、2002年) ISBN 4-642-03378-5
  8. ^ 池田こういち著 『肥後相良一族』

関連項目