満洲国協和会
満州国協和会 滿洲國協和會 | |
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名誉総裁 | 愛新覚羅溥儀 |
成立年月日 | 1932年7月25日 |
解散年月日 | 1945年8月 |
解散理由 | 満洲国の崩壊 |
本部所在地 | 新京特別市 |
政治的思想・立場 |
五族協和 王道楽土 |
満州国協和会(まんしゅうこくきょうわかい)は、満州国における官民一体の国民教化組織。
概要
満州事変以後、中華民国からの分離独立や王道政治に基づく新国家建設の理念を説いた于沖漢らの自治指導部が協和会の起源である[1]。満州国建国に至り、自治指導部は解散したが、このうち合流してた大雄峯会(主に資政局に流れた)の中野琥逸[2]と満州青年連盟の山口重次、小澤開作、于沖漢の子于静遠、阮振鐸らが奉天忠霊塔前で「満州国協和党」を結成、軍司令部の石原莞爾と板垣征四郎から設立準備金2万円が拠出され、さらに結党宣言と綱領を監督した板垣石原のブレーン宮崎正義の「ソ連や中国国民党と同じく、政府が補助金を出すべきだ」との提案により年額120万円が国庫から支弁されることになり[3]、協和党という名称に反対した愛新覚羅溥儀の意向[4]もあって溥儀を名誉総裁とする満州国協和会に改組された。
協和会の基本的単位は「分会」で、地域毎に設立された。そして、各地方行政機関ごとに本部が設置され、これらの分会を統括した。
開設されなかった立法院に代わり、分会代表が参集した連合協議会が実質的に民意を汲み取る機関として期待され、石原に至っては協和会を関東軍に代わる「将来の主権者」として設定し、協和会による一党独裁制を志向していた。しかし、協和党から協和会への改組当初[5]より小磯國昭らが山口や小澤ら旧協和党の古参を排除して関東軍と日系官吏による「内面指導」を強化して教化団体化を図り、特に協和会中央本部の甘粕正彦や古海忠之らと協和会東京事務所を根城にする石原一派の対立[6]からはその存在意義は変質して日中戦争を機に国家総動員体制を担いはじめた[7][8][9][10]。1937年7月に協和会青年訓練所、1937年8月に協和義勇奉公隊、1938年6月に協和青少年団を創設、1940年からは分会と連携して全住民や各家庭に浸透させる隣組を設置[11]、1941年4月に各県長や各省長が地方の協和会の本部長を兼任することになり、政府行政と完全に一体化した[12](これは道府県支部長を道府県知事が兼任した大政翼賛会と同じである)。
幹部
執政(後皇帝)が名誉総裁(名誉会長)を、国務院総理(後国務総理大臣)が会長を兼務した。
綱領
満州帝国協和会は唯一永久、挙国一致の実践団体として政府と表裏一体となり
- 建国精神を顕揚し
- 民族協和を実現し
- 国民生活を向上し
- 宣徳達情を徹底し
- 国民動員を完成し
以って建国理想の実現、道義世界の創建を期す。
出典
- ^ 関東軍司令部「満州国の根本理念と協和会の本質」1936年9月
- ^ 草柳大蔵『実録満鉄調査部』216頁、朝日新聞社 1979年
- ^ 小林英夫『超官僚』
- ^ 愛新覚羅溥儀著、新島淳良・丸山昇訳『わが半生 満州国皇帝の自伝』下巻第六章二、大安、1965年
- ^ 山口重次『満洲建国の歴史 満洲国協和会史』176-178頁、栄光出版社、1973年
- ^ 角田房子『甘粕大尉』224頁、中央公論社、1975年
- ^ 塚瀬進『1940年代における満州国統治の社会への浸透』アジア経済第29巻第7号7頁14頁, 1998年
- ^ 平野健一郎『満州国協和会の政治的展開』日本政治学会年報1972政治学特集「近衛新体制」の研究264頁267頁
- ^ 鈴木隆史『満州国協和会史試論(一)』季刊現代史第2号, 第5号
- ^ 風間秀人「農村行政の支配」浅田喬二・小林英夫編『日本帝国主義の満州支配』261頁, 時潮社, 1986年
- ^ 満鮮日報1941年11月7日付
- ^ 満州国史編纂刊行会編『満州国史各論』, 1971年, 133頁
参考書籍
- 貴志俊彦『満洲国のビジュアル・メディア――ポスター・絵はがき・切手』吉川弘文館、2010