阮振鐸

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阮振鐸
『満洲建国十年史』(1942年)
プロフィール
出生: 1893年光緒19年)[1]
死去: 1973年
中華人民共和国
出身地: 盛京将軍管轄区奉天府鉄嶺県
職業: 政治家・外交官・医師
各種表記
繁体字 阮振铎
簡体字 阮振鐸
拼音 Ruǎn Zhènduó
ラテン字 Juan Chen-tuo
和名表記: げん しんたく
発音転記: ルアン ジェンドゥオ
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阮 振鐸(げん しんたく)は、中華民国満州国の医師・政治家・外交官。叔周

事績[編集]

奉天省立高等工業学校を卒業し、さらに1913年民国2年)に南満医学堂を卒業した。1919年(民国8年)、日本に留学し、京都帝国大学で医化学を専攻した。帰国後の1923年(民国12年)、奉天公立医学院院長兼東北大学校医となった。その後、奉天派の支配地域で軍医等を歴任している。1929年(民国17年)、長春吉林・吉敦鉄路医院院長となった[2][3]

満州国成立後の1932年大同元年)4月、奉天省公署秘書長に就任する[2][3]。また、この頃には、于静遠満州青年連盟山口重次小澤開作とともに、満州協和党(後の満州国協和会)を結成した[4]。11月、国務院国都建設局局長に任命された[2][3]1935年康徳2年)5月21日、張景恵が国務総理となった際に文教部大臣として抜擢される[5]1937年(康徳4年)6月23日、謝介石の後任として駐日特命全権大使を命ぜられた[6]1940年(康徳7年)12月6日、 李紹庚と入れ替わりで交通部大臣に任命される[7]1942年(康徳9年)9月28日、全面的な内閣改造に伴い経済部大臣に移り[8]1944年(康徳11年)12月16日には外交部大臣へ転じた[9]

1945年(民国34年)8月、満州国が滅亡すると、阮振鐸はソ連に逮捕、連行されてしまう。1950年7月31日、中華人民共和国に引き渡され、撫順戦犯管理所に収監された。なお、この収監中において、愛新覚羅溥儀による『我が半生』(原題『我的前半生』)の執筆を手伝っている。1962年、特赦により釈放された。以後、吉林衛生学校、長春市立医院図書館などで勤務している。1973年、死去。享年81[2][3]

[編集]

  1. ^ 王ほか主編(1996)、553頁による。なお、徐主編(2007)、410頁は、1881年(光緒7年)生としている。
  2. ^ a b c d 王ほか主編(1996)、553頁。
  3. ^ a b c d 徐主編(2007)、410頁。
  4. ^ 山室(2004)、199頁
  5. ^ 「鄭総理辞表を捧呈 張景恵氏に大命降下」『東京朝日新聞』昭和15年(1935年)5月22日夕刊。
  6. ^ 「駐日満州国大使 阮文教部大臣に決す」『東京朝日新聞』昭和12年(1937年)6月24日夕刊。
  7. ^ 「駐日満大使異動 李交通部大臣と入代り」『東京朝日新聞』昭和15年(1940年)12月7日夕刊。
  8. ^ 「共栄圏の重責完遂へ 満州国大臣全面更迭」『朝日新聞』昭和17年(1942年)9月29日。
  9. ^ 「満州国大臣級異動」『朝日新聞』昭和19年(1944年)12月17日。徐主編(2007)、410頁。

参考文献[編集]

  • 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1 
  • 王鴻賓ほか主編『東北人物大辞典 第2巻』遼寧古籍出版社、1996年。ISBN 7805074135 
  • 山室信一『キメラ-満洲国の肖像 増補版』中央公論新社中公新書)、2004年。ISBN 4-12-191138-5 
  • 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1 
  満州国
先代
鄭孝胥
文教大臣
1935年5月 - 1937年7月
次代
(民生部に統合)
先代
李紹庚
交通大臣
1940年12月 - 1942年9月
次代
谷次亨
先代
蔡運升
経済大臣
1942年9月 - 1944年4月
次代
于静遠
先代
李紹庚
外交大臣
1944年4月 - 1945年8月
次代
(廃止)