コンテンツにスキップ

浅野長勲

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

これはこのページの過去の版です。あばさー (会話 | 投稿記録) による 2012年5月20日 (日) 07:17個人設定で未設定ならUTC)時点の版 (画像追加)であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。

浅野長勲

浅野 長勲(あさの ながこと、天保13年7月23日1842年8月28日) - 昭和12年(1937年2月1日)は、安芸広島新田藩第6代藩主、のち広島藩第12代(最後の)藩主。また明治時代から昭和時代初期にかけての政治家。浅野宗家13代当主。

浅野懋昭(第7代藩主・浅野重晟の四男・浅野長懋の八男)の長男。母は沢氏。弟に備後福山藩藩主阿部正桓。正室は山内豊熈の娘・綱姫。養子に浅野長厚(正室は長勲の姉妹)、浅野長之浅野長道松浦益子浅野懋績の娘、松浦厚夫人)。幼名は為五郎。初名は長興茂勲。官位は紀伊守、安芸守、左近衛少将。明治後従一位勲一等侯爵

生涯

安政3年(1856年)2月、伯父長訓の養嗣子となり、養父の本家相続に伴って青山内証分家(広島新田藩の別称)の家督を継いだ。

文久2年(1862年)、今度は宗家の当主となった長訓の養嗣子となり、青山内証分家の家督は従弟の長厚に譲った。その後は幕末期の動乱の中で養父の補佐を務め、江戸幕府朝廷間の折衝に尽力した。慶応3年(1867年)には大政奉還の建白書を土佐藩長州藩と共に幕府に提出した。その後の王政復古の大号令では議定となり、小御所会議では御所の封鎖に兵を出して協力し、出席している。同会議では対立する薩摩藩岩倉具視と土佐藩を仲介した。

明治2年(1869年)正月24日、長訓の隠居により家督を継いだ。同年6月に版籍奉還知藩事となり、その後は藩政改革に努めたが、明治4年(1871年)7月の廃藩置県で免官され、東京へ移った。この時に百姓一揆(武一騒動)が起こっている(武家華族は明治3年(1870年)の太政官令により東京在住となったが、新体制の年貢増、外国人のキリスト教布教などの不安から前藩主長訓の東京移住を阻止しようとした)。

明治政府のもとでは元老院議官イタリア公使(明治15年(1882年) - 明治17年(1884年))、貴族院議員を務め、明治17年(1884年)に侯爵となる。明治天皇の命により、幼少期の昭和天皇の養育係を務めた。

明治5年(1872年)、日本最初の洋紙製造工場「有恒社」(大正13年(1924年)に王子製紙に吸収合併)を設立、明治7年(1874年)稼動する。

明治22年(1889年)2月11日、大日本帝国憲法発布の日に創刊された新聞『日本』に出資する。

華族銀行と呼ばれた十五銀行の大株主の1人で、明治26年(1893年)に取締役、明治28年(1895年)に頭取となった。

また、大正15年(1926年)11月には浅野図書館(のちの広島市立中央図書館)を開館した。

昭和11年(1936年)の二・二六事件の際には、事件を起こした青年将校らの助命願いに田中光顕と動いたが、叶わなかった。

昭和12年(1937年)2月1日、94歳の長寿をもって死去した。墓所は広島県広島市西区山手町の新庄山墓地。

最後の大名

「最後の藩主、最後の大名」と呼ばれる人物は旧近江大溝知藩事の分部光謙とされているが、光謙は最後の大名というだけで事蹟が乏しすぎたので、当時は長勲が「最後の大名」として有名であった。長勲死後は旧上総請西藩主の林忠崇石高が低く、戊辰戦争後に改易されたので知名度は低い)が「最後の大名」として注目を受けた。