水谷氏

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水谷氏

  • 水谷氏(みずのやし)は、室町時代に結城氏に仕え、江戸時代に大名となった。以下で解説。
  • 水谷氏(みずがいし)は、相馬氏の家臣。水谷胤重などがいる。相馬郡の水谷の地が由来。

常陸国の水谷氏(みずのやし)は、藤原秀郷 の流れをくむ一族。室町時代下総結城氏の客分となり、戦国時代には常陸下館城を拠点に水谷正村(蟠竜斎)が活躍、関ヶ原の戦いの後には独立して近世大名となる。寛永16年(1639年)に備中成羽藩5万石へ、寛永19年(1642年)に備中松山藩5万石へと移封され、松山藩の基礎を築く。今も残る備中松山城の天守閣は、水谷氏による大修築の結果、現在の姿となったものである。元禄6年(1693年)水谷氏備中松山藩3代藩主・勝美に嗣子なく[1]廃絶。勝美の弟勝時旗本となり、旗本としての水谷家は明治維新を迎えるまで存続した。

出自

水谷氏の出自には諸説がある。一説には鎌倉時代、藤原秀郷の七世の孫である景頼の子・親実が、陸奥国岩城郡水谷の地頭となり、水谷を称したのが始まりという。親実は田村仲教の子・仲能を養子とし、仲能は関東評定衆に任ぜられて鎌倉亀ケ谷に屋敷を構えた。仲能の子・重輔と、重輔の子・清有(岩城郡の石川有光の子で、重輔の養子となる)は六波羅評定衆となる。後に清有は陸奥国行方郡猿田七郷を領して猿田に住し、その館は猿田御所と呼ばれたという。後にその一流が常陸国に移って結城朝広に仕えたとされている(東京大学史料編纂所架蔵本『水谷家譜』)。小山氏の乱後、再興された小山氏の当主として結城氏から小山泰朝が送られた際に水谷氏もこれに従い、このため水谷氏は時期によって小山氏・結城氏両方の被官の時代が存在するとされている[2]。水谷氏の軍記として、『水谷家譜』があるが江戸時代に成立した同書には全く内容が異なる2種(東京大学史料編纂所架蔵本と静嘉堂文庫本)がある。これは結城氏との関係が強かった時期と独立した大名として確立した時期にそれぞれ編纂されたものとみられ、当時の水谷氏の立場を示すものと考えられている[3]

結城合戦

永享9年(1437年)、鎌倉公方足利持氏関東管領上杉憲実との対立が深まった結果、永享の乱が起こる。憲実に救援を請われた室町幕府6代将軍足利義教は討伐軍を派遣、持氏は自害した。乱後の永享12年(1440年)、義教がその実子を新たな鎌倉公方として下向させようとすると、これに反発した持氏残党が持氏の遺児である春王丸安王丸を奉じて常陸中郡木所城(現在の茨城県桜川市)で挙兵。春王丸らは結城氏朝を頼り、小栗伊佐の庄(いずれも現在の茨城県筑西市)経由で結城城(現在の茨城県結城市)に入る。突然の入城に動揺した結城家家老たちは春王丸らの受け入れに反対、髻を落として出家のうえ城を出た。唯一、水谷伊勢守(水谷時氏)だけは「乱を見て捨てるは弓矢の道ならず、力無くとも討ち死にするより道はあるまい」として城に留まり、主君とともに死する道を選んだという。一方、義教は春王丸らの挙兵に対して結城城に大軍を派遣、いわゆる結城合戦が勃発する。結城城は長く幕府方の攻撃に持ちこたえたが、永享13年(1441年)4月に落城。安王丸と春王丸は捕らえられた後に殺され、水谷伊勢守は氏朝やその子持朝とともに討死した。なお、結城合戦で実験にかけられた首のなかに、水谷姓の水谷大炊助の首がみえる(『永享記』『永享後記』)。

系譜

水谷氏の末裔

脚注

  1. ^ 水谷勝晴が勝美の末期養子となっていたが、家督相続前に早世したため継承されなかった。
  2. ^ 髙橋、2010年、P169-170
  3. ^ 例えば、前者は正村の父を「正吉」として江戸幕府成立後に水谷氏が結城秀康の越前転封に従ったと記されているのに対して、後者は正村の父を「治持」として徳川家康秀忠によって水谷氏が大名に取り立てられる過程が描かれている。髙橋、2010年、第三部第二章
  4. ^ 一門・田村仲教の子。
  5. ^ 越前敦賀藩主酒井忠香の3男。

参考文献

第三部第二章「水谷氏と『家伝』」ISBN 4585031715

関連項目