樺山久高
時代 | 戦国時代 - 江戸時代初期 |
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生誕 | 永禄3年(1560年) |
死没 | 寛永11年3月4日(1634年4月1日) |
改名 | 大野七郎忠高→樺山権左衛門久高 |
別名 | 亀千代丸(幼名)、玄屑(法号) |
神号 | 正森忠栄庵主 |
官位 | 治部大輔、美濃守 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 島津氏 |
藩 | 薩摩藩 |
氏族 | 樺山氏 |
父母 | 父:樺山忠助、母:村田経定の女 |
兄弟 | 規久、久高 |
妻 | 正室:大野忠宗の女、継室:上原尚張の女 |
子 | 久守、久盈 |
樺山 久高(かばやま ひさたか)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将。島津氏の家臣。樺山忠助の次男。樺山善久の孫。
武芸だけでなく、和歌や蹴鞠にも造詣の深い教養人であったといわれている。
生涯
[編集]永禄3年(1560年)、島津家の家臣・樺山忠助の子として誕生。樺山氏は島津氏の一族で、久高はその13代目の当主である。
当初、島津氏重臣・大野忠宗の婿養子となり大野七郎忠高と称した。天正4年(1576年)の高原城攻めや、天正12年(1584年)の沖田畷の戦いに従軍、天正13年(1585年)の堅志田城攻めでは敵2人を討ち取り、天正14年(1586年)の勝尾城攻めでは敵と組打ちし、手負いとなりながらも討ち取っている。同年の岩屋城攻めでは一番首の功名をなした。また同年、島津義弘の陣に属して豊後国入りし、犬童頼安・犬童頼兄と共に坂無城の番を仰せつかった。
天正14年(1586年)、豊臣秀吉の九州征伐の際、肥後国の豪族が離反し坂無城へ攻め寄せようとすると、新納忠元・伊集院久春と共に敵陣を破り、敵100名を討ち取って無事に薩摩国への帰国を果たした。島津氏が秀吉に降伏した後は、小田原征伐に向かう義弘の次男・島津久保の供をした。
天正19年(1591年)4月27日、義父の忠宗が島津義久の命により誅殺される(理由は不詳)と、これに伴い忠高も加世田に蟄居した(後に蟄居先は谷山に)。しかし、義弘より文禄の役へ参戦する久保の供をするよう命が降り、離婚して樺山姓に復すと樺山権左衛門久高と改名し、200石を加増され家老に任じられた。
文禄2年(1593年)、久保が病死すると一時帰国するも、再び朝鮮へ渡海し泗川の戦いや李氏朝鮮の武将・李舜臣の水軍を破るなど(露梁海戦)、甥の樺山忠正と共に功をなした。帰国後の慶長4年(1599年)6月、甥の忠正が嗣子無く伏見にて病死すると、久高が樺山氏を継ぎ、島津忠恒(家久)の代にも家老として重用された。慶長12年(1607年)に出水の地頭に任じられる。慶長14年(1609年)の琉球侵攻においても、首里城を落とすなどの武功を立てて、島津氏の琉球支配に貢献した。寛永5年(1628年)に伊作(現・鹿児島県日置郡吹上町)の地頭となり、同年出家し「玄屑」と号した。しかし、領地の加増を訴えるも主君・家久には無視され、跡取りの息子にも先立たれて失意の晩年を送った。