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樺山久高

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
樺山 久高
時代 戦国時代 - 江戸時代初期
生誕 永禄3年(1560年
死没 寛永11年3月4日1634年4月1日
改名 大野七郎忠高→樺山権左衛門久高
別名 亀千代丸(幼名)、玄屑(法号
神号 正森忠栄庵主
官位 治部大輔、美濃守
幕府 江戸幕府
主君 島津氏
薩摩藩
氏族 樺山氏
父母 父:樺山忠助、母:村田経定の女
兄弟 規久久高
正室:大野忠宗の女、継室:上原尚張の女
久守久盈
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樺山 久高(かばやま ひさたか)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将島津氏の家臣。樺山忠助の次男。樺山善久の孫。

武芸だけでなく、和歌蹴鞠にも造詣の深い教養人であったといわれている。

生涯

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永禄3年(1560年)、島津家の家臣・樺山忠助の子として誕生。樺山氏は島津氏の一族で、久高はその13代目の当主である。

当初、島津氏重臣・大野忠宗の婿養子となり大野七郎忠高と称した。天正4年(1576年)の高原城攻めや、天正12年(1584年)の沖田畷の戦いに従軍、天正13年(1585年)の堅志田城攻めでは敵2人を討ち取り、天正14年(1586年)の勝尾城攻めでは敵と組打ちし、手負いとなりながらも討ち取っている。同年の岩屋城攻めでは一番首の功名をなした。また同年、島津義弘の陣に属して豊後国入りし、犬童頼安犬童頼兄と共に坂無城の番を仰せつかった。

天正14年(1586年)、豊臣秀吉九州征伐の際、肥後国の豪族が離反し坂無城へ攻め寄せようとすると、新納忠元伊集院久春と共に敵陣を破り、敵100名を討ち取って無事に薩摩国への帰国を果たした。島津氏が秀吉に降伏した後は、小田原征伐に向かう義弘の次男・島津久保の供をした。

天正19年(1591年4月27日、義父の忠宗が島津義久の命により誅殺される(理由は不詳)と、これに伴い忠高も加世田に蟄居した(後に蟄居先は谷山に)。しかし、義弘より文禄の役へ参戦する久保の供をするよう命が降り、離婚して樺山姓に復すと樺山権左衛門久高と改名し、200石を加増され家老に任じられた。

文禄2年(1593年)、久保が病死すると一時帰国するも、再び朝鮮へ渡海し泗川の戦い李氏朝鮮の武将・李舜臣の水軍を破るなど(露梁海戦)、甥の樺山忠正と共に功をなした。帰国後の慶長4年(1599年)6月、甥の忠正が嗣子無く伏見にて病死すると、久高が樺山氏を継ぎ、島津忠恒(家久)の代にも家老として重用された。慶長12年(1607年)に出水地頭に任じられる。慶長14年(1609年)の琉球侵攻においても、首里城を落とすなどの武功を立てて、島津氏の琉球支配に貢献した。寛永5年(1628年)に伊作(現・鹿児島県日置郡吹上町)の地頭となり、同年出家し「玄屑」と号した。しかし、領地の加増を訴えるも主君・家久には無視され、跡取りの息子にも先立たれて失意の晩年を送った。

寛永11年(1634年)、病死。享年75。墓所は鹿児島県日置市多宝寺