新東京プロレス

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新東京プロレス(しんとうきょうプロレス)は、日本プロレス団体。設立時期により東京プロレス(とうきょうプロレス)、新東京プロレス石川一家(しんとうきょうプロレスいしかわいっか)に分かれる。また東京プロレスの流れを組んで発足する予定であったFFFFighting For Future、ファイティング・フォー・フューチャー)についてもこの項で記述する。

歴史

東京プロレスの時代

WARに所属していた石川敬士(現:石川孝志)が団体の運営方針を巡って天龍源一郎らと対立、相撲軍団を率いてWARに参戦していた団長の坂下博志(のち副社長)らと共に離脱後設立した団体。1994年12月5日福井県三国町で旗揚げ戦を行う予定であったが、諸事情から中止となり、同年12月7日旗揚げ第2戦として行われる予定であった石川県金沢市石川産業展示館にて正式な旗揚げ戦を行う。

団体名は一度聞いたら忘れないという理由から、首都である東京とプロレスを合わせて「東京プロレス」と命名する(尚かつて存在した「東京プロレス」とは関係は無い)。

所属選手は石川の他に、WARで相撲軍団のメンバーとしてリングに上がっていた初代:嵐(移籍と同時に「ダンク・タニ」と改名、現:大黒坊弁慶)に加え、元NOWの選手など8名を確保。さらにレスリング・ユニオンと中京格闘技連盟(CMA)の協力を仰ぎ、陣容を整える。また、旗揚げの記者会見場に青柳政司率いる誠心会館勢が乱入し、抗争を展開する事となる。

東京プロレスは様々な試みで話題を作った。石川が1995年5月5日川崎球場での大仁田厚引退試合(電流爆破マッチ)の対戦相手に名乗りをあげたり(実現せず)[注釈 1]、後述する公称:時価3億円相当のチャンピオンベルトを使用したTWA認定世界タッグ王座の新設と王座決定トーナメントの実施、石川がガッツ石松異種格闘技戦での対戦を呼びかける(実現せず)など注目を集める様になった。

1996年10月8日大阪府立体育会館大会では、高田延彦アブドーラ・ザ・ブッチャーという異次元対決を実現させ、石川と安生洋二との社長争奪マッチ(安生が勝利し社長となる。但し、経営権が本当に委譲されたかどうかは不明)などが行われた。しかし、大物選手の招聘を続出させた事などで人件費がかさみ、順調に見えた団体運営も内情は苦戦が続く事になる。

「FFF」インディ統一構想と挫折

1996年11月1日、当時の東京プロレスのオーナーから「日本プロレスリング共同機構(ファイティング・フォー・フューチャー、略称はFFF)」の設立が発表された。当時の東京プロレスのオーナーとI.W.A.JAPANを離脱した佐藤昭雄が組み、乱立するインディペンデント団体を統一する構想として機構を設立したものであった。この構想に呼応する形で、I.W.A.JAPANなどを主戦場としていたターザン後藤率いる真FMWや、天龍源一郎との確執でWARを離脱した冬木弘道率いる冬木軍などが参加を表明。折原昌夫田村忍の「ヤング・デストロイヤーズ」を含む石川、カブキら東京プロレス勢、継続参戦していた安生率いる「ゴールデン・カップス」、一部のフリー選手を加えた陣容となっていた。

これに対して、前述の通り石川らの離脱、東京プロレス設立の経緯から対立関係にあったWARは、FFFに対抗する形で「プロレス連合會」を設立。これには専務であった佐藤や看板選手であった後藤ら真FMWを失ったI.W.A.JAPAN、WARと提携していた武輝道場のほか冴夢来プロジェクトレッスル夢ファクトリー大日本プロレス(後に離脱)が参加し、インディ統一に向けての受け皿が分裂するという混迷の中での始動となった。

FFFとしては、同年12月7日両国国技館での興行が東京プロレス主催としての最後の興行となり、翌年以降はFFFの旗の下での興行が予定されていた。しかし石川、弁慶、奥村茂雄川畑輝鎮ら一部の東京プロレス勢はFFFに参加しない事を両国大会の開催前に表明(後述の「新東京プロレス軍団」の登場へ至る)し、カブキも大会後にFFFを離脱してI.W.A.JAPANへ入団するなど、早くもFFF側の足並みが乱れる形となった。

結局、FFFは資金調達を失敗[注釈 2]するなどの結果、旗揚げを前に崩壊するという前代未聞の事態となった。FFFに参加を予定していた選手は、新たな組織を設立したり、他の団体への参戦を余儀なくされた[注釈 3]

南条隼人2011年に旗揚げした「FFFプロレスリング」とは無関係。

新東京プロレス - 新東京プロレス石川一家の時代

1996年12月13日、両国国技館にて行われたWARの興行において、FFFに参加しなかった石川をはじめとする旧東京プロレスの選手が出場、石川にとっては2年2ヶ月振りのWAR登場となる。これを機に自らの軍団名を「新東京プロレス」と命名する。

さらにその翌年の1997年1月24日後楽園ホールにて行われたI.W.A.JAPANの興行に石川以下、新東京プロレス軍団が乱入し、これを機に「新東京プロレス石川一家」と軍団名を改める[注釈 4]

同年3月2日、後楽園ホールにて石川一家の初の自主興行を開催するが、徐々に観客動員の不振に伴い、規模が縮小、その後、石川の引退によって活動を停止。

タイトル

TWA認定世界タッグ王座

ベルト1本あたりの時価が1億5千万円(但し、真贋は不明)の宝石をあしらった豪華な王座(その為、通称「3億円ベルト」と呼ばれていた)。1996年3月22日から4月2日にかけて、16チーム参加の『初代王者決定トーナメント』を実施。藤原喜明&ミスター・ポーゴ組や石川隆士&安生洋二組など団体の垣根を越えた異色のタッグが実現し、話題を集めた。結果は、石川&安生の越境タッグがザ・グレート・カブキ&大黒坊弁慶組を破って初代王者となった。以降、3代の選手権チームがこのベルトを巻いた。恐らくFFFでも使用する予定だったと思われるが、旗揚げ前に頓挫した為、現在ベルトは所在不明となっている。

歴代王者

ジュニアチャンピオンフラッグ王座

ジュニアヘビー級選手を対象とした王座で、チャンピオンベルトではなく、時価3千万円相当(タッグ王座同様に真贋は不明)のフラッグ(旗)を王者は所持する。初代王者決定戦は1996年10月8日折原昌夫山本健一との間で争われ、折原が勝利し初代選手権者となった。こちらもFFFでも使用する予定だったと思われるが、旗揚げ前に頓挫した為、現在フラッグは所在不明となっている。

歴代王者
  • 初代 : 折原昌夫(1回防衛)

所属選手、スタッフ

東京プロレス旗揚げ時点での所属選手、スタッフ

東京プロレスまたは新東京プロレスと新東京プロレス石川一家に所属した選手、スタッフ

参考書籍

  • 竹内宏介『プロレス醜聞100連発』日本スポーツ出版社ISBN 4-930943-10-8 

注釈

  1. ^ 引退試合の対戦相手に内定していたターザン後藤が直前にFMWを離脱し白紙となった為、大仁田が他団体選手に呼び掛けてこれに応じたもの。調印直前にハヤブサが名乗りを上げたため禅譲し、自ら当日のアンダーカードに出場した。
  2. ^ 当時のオーナーはバイク便会社の社長で、他にも事業を手掛けていたが関連事業の業績悪化でFFFへの資金調達が難しくなり、選手、スタッフを残して雲隠れしてしまったと言われる[1]
  3. ^ 参加予定選手のうち、安生ら「ゴールデン・カップス」はUWFインターナショナル崩壊後設立された「キングダム」に参加。冬木軍は「冬木軍プロモーション」を設立しFMWを主戦場とした。このほか、後藤は「R2W」(後の「革真浪士団」、「ターザン後藤一派」を経て「スーパーFMW」)、折原は「MOBIUS」を設立し、自主興行のほかインディー団体を主戦場としている。
  4. ^ 構成員であった大黒坊弁慶は、東京プロレス時代に師弟関係を結んでいたカブキがIWAジャパンに所属していた為、石川一家を離脱しIWAジャパンに移籍した。

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