崔承喜
崔承喜 | |
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崔承喜(右)…1946年ソウルにて | |
各種表記 | |
ハングル: | 최승희 |
漢字: | 崔承喜 |
発音: | チェ・スンヒ |
日本語読み: | さいしょうき |
英語表記: | Choe Seung-hui |
崔 承喜(さい しょうき[1]、1911年11月24日 - 1969年8月8日?)は、第二次世界大戦前、戦中に活躍した舞踏家。戦後北朝鮮へ渡る。兄は作家崔承一、夫は北朝鮮文化省次官を務めた政治家の安漠、娘は同じく舞踏家の安聖姫。
経歴
京城(現在のソウル)で両班の家に生まれる。幼いころに才能を認められ、16歳のときソウル公演に来ていたモダンダンスの石井漠に師事し内地(日本本土)に渡った[2]。後に独自のスタイルを築き、日本はもとよりヨーロッパ、アメリカでも好評を博した。化粧品や百貨店の広告にモデルとして採用され、雑誌の企画で日本を代表する美人の一人に選ばれるなど、当所の代表的なファッションリーダーであった。ピカソやジャン・コクトー、川端康成等多くの文化人にも支持された。1936年には太平レコード、満州国のキリンレコード、日本のコロムビアレコードから『イタリアの庭』というアルバムを出している。
戦時中は日本人として支那戦線の日本軍へ慰問団の一員として慰問活動などを行っていた。アメリカ西海岸での公演の際、現地で活動する朝鮮独立運動家から日本語読みの名前で活動していることを理由に批判される一方、公演会場入口で独立派支援のバッヂが売られていたことから日本政府からは反体制派の一人と目された。
戦後は夫と共に北朝鮮に移り、舞踊研究所を設立する。1951年、周恩来の支持で北京に舞踊訓練班を設立し、多くの生徒を指導する。 しかし1967年「ブルジョワおよび修正主義分子」とし粛清され[3]、同年以降夫の安漠・娘の安聖姫とともに消息不明となった[4]。ところが2003年2月9日に、1969年に亡くなったこと、遺体が愛国烈士陵に葬られ墓碑に「舞踊家同盟中央委員会委員長、人民俳優」と刻まれていることが公式筋より公表され、「人民俳優」として名誉回復されたことが明らかとなった。しかし、失脚理由や死因は公式発表されておらず、公式発表の没年月日ですら正確な物なのかどうか、未だに疑問がもたれている[5]。
2008年4月29日に韓国の市民団体民族問題研究所、ならびにその傘下の親日人名辞典編纂委員会より発表された親日人名辞典の第2回リストに名前が掲載されており、彼らによって親日派であると認定されている[6]。
出演映画
- 半島の舞姫(1936年、新興キネマ製作、監督今日出海)[7]。
- 大金剛の譜(1938年、日活製作)
- 伝説の舞姫 崔承喜 金梅子が追う民族の心(2000年) - 崔承喜の生涯を追ったドキュメンタリー映画。
脚注
- ^ 日本語読みでさい・しょうきとして活躍していた。
- ^ 萩原遼『ソウルと平壌』大月書店、1989年、p144、ISBN 4-272-21054-8 c0031
- ^ 『朝鮮労働党略史』朝鮮労働党出版社、1979年、p600
- ^ 萩原遼『ソウルと平壌』大月書店、1989年、p145、ISBN 4-272-21054-8 c0031
- ^ 崔承喜の姪の証言によると1975年に下放先で肝臓ガンにより死去という。 立教大学アジア研究所の研究報告
- ^ “親日人名辞典、安益泰・崔承喜らも親日派として収録”. 東亜日報. (2008年4月30日) 2009年11月9日閲覧。
- ^ 半島の舞姫新興映画「半島の舞姫」
関連項目
- 玉流館 - 旧崔承喜舞踊研究所建物を使用した冷麺専門店。
- 京畿道 (日本統治時代)
- 創氏改名
- 永田絃次郎 - 本名「金永吉」。戦前は著名なテノール歌手であったが、帰国事業に応じて家族を引き連れて北朝鮮に渡り、崔同様に家族もろとも行方不明となった。
関連書籍
- 炎は闇の彼方に―伝説の舞姫・崔承喜(金賛汀・著、日本放送出版協会)ISBN 4140807091
- さすらいの舞姫 北の闇に消えた伝説のバレリーナ・崔承喜(西木正明著、光文社、2010年)ISBN 4334927203