島津宗久

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  1. 島津宗家5代当主、島津貞久の長子(1322年 – 1340年)。
  2. 島津氏の分家、伊作家2代当主(? – 1354年)。

島津宗久(島津宗家)

島津 宗久(しまづ むねひさ、元亨2年(1322年) – 興国元年/暦応3年4月24日1340年5月21日))は、南北朝時代武将。幼名は生松丸。通称は三郎左衛門尉三郞左衞門尉)。官位は大夫判官島津貞久の嫡男(次男)。母は栴林夫人(大友親時の娘)。川上頼久の弟、師久氏久の兄。

建武5年(1338年)、父と共に高師直の軍に属して、北畠顕家と戦い功を上げる。家督相続の有力候補だったが、僅か19歳で没した。山門院から薩摩郡平佐へ向かう途中に落馬したのが原因だとされる[1]。法名は花巖榮公大禪定門神号貴櫻眞恆彥命。その早すぎる死に伴い、弟の師久、氏久が守護国の分与を巡って争い、島津氏は総州家奥州家の2家に分裂した。

島津宗久(伊作家)

島津 宗久(しまづ むねひさ、生年不詳 – 正平9年/文和3年6月23日1354年7月13日))は鎌倉時代末期から室町時代前期にかけての薩摩武将。薩摩島津氏の分家、伊作家の2代当主。父は伊作家初代の島津久長。幼名は徳寿丸德壽丸)、官位は左京亮大隅。室は島津宗家4代当主島津忠宗の娘。子に親忠(伊作家4代当主)。上述の宗久は又従兄に当たる。

文保元年(1317年)、父の久長より家督を譲り受ける。当時、元寇による出費に苦しんでいた御家人達は先祖伝来の土地を売却し、商人などから借金をして生計を立てていた。宗久は幕府の許可を得て御家人と商人間の仲裁を行っていた。

正慶2/元弘3年(1333年)、後醍醐天皇が幕府に叛旗を翻し各地の豪族に決起を促すと、島津宗家5代当主、島津貞久は倒幕軍に加わる。宗久は貞久と共に参陣。九州探題北条英時を襲撃、勝利を収める。翌年、後醍醐天皇による新政が始まるが、宗久は恩賞を与えられなかった。そのため天皇に奏上し、所領を加増されている。

建武2年(1335年)、後醍醐天皇と足利尊氏の間に紛争が勃発。貞久が尊氏方に属すと、宗久もこれに従う。翌年南朝方に破れ尊氏が九州に落ち延びてくると、島津一族は薩摩・大隅の南朝勢力の討伐を命じられ、宗久は貞久指揮の下軍功をあげる。尊氏が京都へ侵攻すると一族とともに従軍、京都を奪還した。

延元2/建武4年(1337年)、京都にいた宗久は国許の父、久長が南朝方に攻撃を受けたことを聞き、貞久を通じて尊氏に帰国させてくれるよう願い出る。尊氏の許可を得て貞久の長庶子川上頼久と共に帰国。南薩地方の南朝勢力討伐を命じられる。暦応3/興国元年(1340年)、貞久が帰国し南朝方の伊集院忠国の攻勢により占領された地域を奪還していくと、宗久もこれに参加する。康永元/興国3年(1342年)、懐良親王が征西将軍宮として薩摩谷山に到着すると、幕府は宗久に出陣を要請する。貞和2/正平元年(1346年)、伊集院忠国が伊作に侵攻すると、宗久は敗北し居城にて篭城している。

貞和5/正平3年(1349年)、幕府内で内訌が起こり、尊氏の弟である直義が追放されると、直義の養子で尊氏の庶長子である直冬は身の危険を感じ九州へ潜伏。翌年幕府は宗久に直冬捕縛の命を発す。しかし幕府内の事態が一変し直義が復帰、直冬が九州探題に就任したため討伐は中止される。幕府内の混乱を収めるため尊氏・義詮親子が南朝方に降伏すると、貞久・宗久ともに南朝に帰属、直冬を攻撃した。その後尊氏が再び南朝に背くとこれに従い、終始幕府と趨勢をともにする。文和3/正平8年(1354年)、長子の親忠に家督を譲り隠居する。その後間もなくして死去。法名は道惠大禪定門 (道恵大禅定門)

脚注

  1. ^ 安田元久編『鎌倉・室町人名事典』(新人物往来社、1985年)277頁