山汐丸

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艦歴
発注: 三菱重工業横浜船渠
起工 1944年9月11日
進水 1944年12月2日
竣工 1945年1月27日
その後 1945年2月17日に戦没
除籍
性能諸元
排水量 15,864t
全長 148.0m
全幅 20.4m
機関 4,500shp
最大速力 15kt
兵装 25mm連装機銃8基
二式十二糎迫撃砲2門
爆雷投下軌条2基
爆雷120発

山汐丸(やましおまる)は、日本の2TL型戦時標準船の2番船。護衛空母兼用のタンカーで、就役後は日本陸軍の指揮下で運用される予定であった。

艦歴

「山汐丸」は、山下汽船の発注により、1944年(昭和19年)9月11日三菱重工業横浜船渠で2TL型タンカー5番船として起工された。日本陸軍により特2TL型としての設計変更が指示されたため、同型姉妹船よりも優先的に工事が進められることになり、11月14日進水、1945年(昭和20年)1月27日に竣工した。陸軍指揮下で運用予定であったが、形式上は民間船で船主は山下汽船のままであった。搭載機数は8機で、陸軍機ではSTOL性能に優れた三式指揮連絡機を運用する予定であった。武装も対潜水艦戦闘を重視したもので、同時期の空母型の陸軍特殊船であるあきつ丸などとほぼ同じ構成である。対潜迫撃砲である二式十二糎迫撃砲を船首に2門搭載する構成の為か、海軍のしまね丸よりも飛行甲板が短い事が外見上の特徴である。

しかし、戦況の悪化からすでに南方航路は著しく危険で本来のタンカーとしては使用の見込みが無いため、就役しないまま石炭焚きの貨物船への改造が決まった。

改造のため三菱重工横浜船渠において係留待機中、1945年(昭和20年)2月17日ジャンボリー作戦で来攻した第58任務部隊艦上機による空襲で250kg爆弾1発、ロケット弾多数を受け大破、船首が折れて着底した。

終戦後の1946年(昭和21年)3月6日には、建造途上で工事が中止されたまま放置され、港内を漂流していた大浜型標的艦二番艦大指が、着底状態の山汐丸と衝突する事故を起こしている。大指はこの衝突により浸水着底した[1]

7月から解体が進められたが、残骸を岸壁の一部として再利用することになった。上部構造物を取り除かれた船体は、横浜船渠の北部にある第7岸壁脇に配置され、土砂を詰めて擱座状態で固定された。通称「山汐岸壁」と呼ばれ、1956年(昭和31年)に建造船大型化に対応した造船所拡張に伴い撤去されるまで、艤装作業用に使われた。なお、2008年に、みなとみらいセンタービルの建設工事の際、本船のが発見され、同ビルの脇の広場に展示されている。

同型船

タンカーとして就役した同型船「千種丸」。捕鯨船団に加入中の写真。

同型船として日本郵船所属の「千種丸」が建造中で1944年12月に進水したものの、戦局悪化のため工事中止となった。係留中に空襲を受け大破。終戦後に再生工事を受けて、1949年(昭和24年)にタンカーとして就役、大洋漁業により運用されたのち、1963年(昭和38年)に佐世保にて解体されている[2]

同じくタンカーとして就役した同型船「瑞雲丸」。掲載元の舟艇協会出版部刊「日本船舶画鑑」では、「旧日本陸軍 特2TL型戦時標準船」のキャプションが付けられている。

また、史料によっては岡田商船所属の「瑞雲丸」が特2TL型の3番船として改装される予定であったとするものもある。瑞雲丸は戦後1964年まで運用され、大阪で解体されている[3][4]

脚注

  1. ^ 丸スペシャル『日本の空母II』 p.64、および『写真 日本海軍全艦艇史』資料編 p.31。
  2. ^ #Chesneau pp.186
  3. ^ #松井(1) pp.170-171
  4. ^ #Chesneau pp.186

参考文献

  • 「みなとみらい物語:変わり行く街で / 4 旧陸軍空母兼油槽船「山汐丸」の錨」 毎日新聞 2011年1月5日神奈川県版。
  • 松井邦夫『日本・油槽船列伝』成山堂書店、1995年。ISBN 4-425-31271-6 
  • Chesneau, Roger, ed (1980). Conway's All the World's Fighting Ships 1922-1946. Greenwich, UK: Conway Maritime Press. ISBN 0-85177-146-7 

関連項目