山口素臣

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
山口やまぐち 素臣もとおみ
山口素臣(1899年)
渾名 「戦将中の戦将」
生誕 1846年6月8日
日本の旗 長門国山口藩
死没 (1904-08-07) 1904年8月7日(58歳没)
所属組織  大日本帝国陸軍
最終階級 陸軍大将
勲章
配偶者 きち(森清右衛門の姉)
親族 山口十八(養子)
テンプレートを表示

山口 素臣(やまぐち もとおみ、弘化3年5月15日1846年6月8日) - 1904年(明治37年)8月7日)は、日本陸軍軍人[1]第5師団長歩兵第3・10旅団長を歴任し数々の戦役に悉く従軍した事から「戦将中の戦将」と評された。階級は陸軍大将正三位勲一等功二級子爵

経歴[編集]

山口藩士・山本芳の息子としてに生まれ、同藩士・山口義惟の養子となる。戊辰戦争奇兵隊嚮導役として従軍し北陸、奥羽を転戦。維新後は陸軍に仕官する。

明治3年(1870年)9月に大坂陸軍教導団第2教導隊に入り明治4年(1871年)4月、陸軍軍曹に任命される。同年中に少尉中尉大尉と累進し1873年(明治6年)10月より陸軍少佐。翌年1月、近衛歩兵第1連隊が創設されると第1大隊長に就任し、佐賀の乱に参戦。続く西南戦争では3月4日の田原坂の戦いに参加。豊岡・平原地区(現・熊本市北区植木町内)に陣取る薩軍右翼を攻撃したが、逆襲に遭い苦戦を強いられる。当時の近衛連隊は2個大隊で編制されており、あわせて4人の大隊長がいたが、山口以外の3人の大隊長は全員戦死している。

戦後、歩兵第9連隊長、歩兵第7連隊長を経て1882年(明治15年)2月、陸軍大佐に進級する。同年3月から熊本鎮台参謀長、1885年(明治18年)5月に東京鎮台参謀長、1886年(明治19年)5月には近衛参謀長に就任する。1887年(明治20年)9月から翌年6月まで欧米を視察する。1889年(明治22年)9月、同月5日に病死した品川氏章の後任として歩兵第10旅団長心得、1890年(明治23年)2月、陸軍少将・歩兵第10旅団長に進み、1894年(明治27年)から始まる日清戦争には第2師団隷下歩兵第3旅団長として出征する。

1月20日、山東半島に上陸し、右翼隊を率いて威海衛の戦いに参加。この功により戦後の1895年(明治28年)8月に男爵を授けられ、1896年(明治29年)10月、陸軍中将に進み第5師団長に補される。

1900年(明治33年)、北清事変に出征し戦功を挙げ勲一等旭日大綬章、功二級金鵄勲章を受章する。1904年(明治37年)3月、陸軍大将に進み軍事参議官に任命されるが同年8月に逝去し、子爵を追贈された。墓所は東京都港区青山霊園

年譜[編集]

  • 1870年(明治3年)9月 - 大坂陸軍教導団第2教導隊
  • 1871年(明治4年)
    • 4月 - 軍曹
    • 8月11日 - 少尉
    • 9月12日 - 中尉
    • 10月20日 - 大尉
  • 1873年(明治6年)10月10日 - 少佐
  • 1877年(明治10年)11月12日 - 歩兵第9連隊長
  • 1878年(明治11年)11月21日 - 中佐
  • 1880年(明治13年)4月25日 - 歩兵第7連隊長
  • 1882年(明治15年)
    • 2月6日 - 大佐
    • 3月10日 - 熊本鎮台参謀長
  • 1885年(明治18年)5月26日 - 東京鎮台参謀長
  • 1888年(明治21年)5月27日 - 近衛参謀長
  • 1889年(明治22年)
    • 2月6日 - 観兵式諸兵参謀長[2]
    • 9月11日 - 歩兵第10旅団長心得[3]
  • 1890年(明治23年)2月12日 - 少将、補歩兵第10旅団長[4]
    • 12月5日 - 歩兵第3旅団長
  • 1895年(明治28年)8月20日 - 男爵
  • 1896年(明治29年)10月14日 - 中将、第5師団長
  • 1904年(明治37年)3月17日 - 陸軍大将軍事参議官[5]

栄典[編集]

位階
勲章等
外国勲章佩用允許

エピソード[編集]

  • 日清戦争にて、旅順に上陸した兵士の間で吐瀉病が流行した。山口は野戦病院を訪れると、兵士の手を握り、背中をなでて、「国家の為に捨てる命を、病魔に取られてどうする気か」と叱咤したという[20]
  • 威海衛の戦いにて、戦闘(31日)に先立つ1月29日早朝、小高い丘に立って戦況を視察していた。そのとき、清側の砲弾が付近で炸裂し、隣にいたアメリカのクロニクル紙(サンフランシスコ・クロニクルもしくはオーガスタ・クロニクルen)か)記者が転げ落ちた。山口は彼を引き上げると、「また後から来るかもしれないから、早く彼方へ行くがいい」と至って落ち着いた口調で告げたという[20]

家族[編集]

妻・きちは十二世有馬屋清右衛門の二女[21]であり、十三世清右衛門こと森清右衛門の姉。 後を継いだ養嗣子の山口十八は子爵を襲爵。十八は後に陸軍少将となり歩兵第11旅団長、近衛歩兵第1旅団長等を歴任した。

脚注[編集]

  1. ^ 朝日日本歴史人物事典「山口素臣」
  2. ^ 『官報』 1889年2月7日 敍任及辭令
  3. ^ 『官報』 1889年9月14日 敍任及辭令
  4. ^ 『官報』 1890年2月14日 敍任及辭令
  5. ^ 『官報』1904年3月18日 敍任及辭令
  6. ^ 『官報』第2000号「叙任及辞令」1890年3月4日。
  7. ^ 『官報』第3565号「叙任及辞令」1895年5月21日。
  8. ^ 『官報』1900年6月12日 敍任及辭令
  9. ^ 『官報』第6239号「叙任及辞令」1904年4月21日。
  10. ^ 『官報』第560号「賞勲叙任」1885年5月16日。
  11. ^ 『官報』第1933号「叙任及辞令」1889年12月6日。
  12. ^ 『官報』第3578号「叙任及辞令」1895年6月5日。
  13. ^ 『官報』第3644号「叙任及辞令」1895年8月21日。
  14. ^ 『官報』号外「辞令」1896年11月17日。
  15. ^ 『官報』 1897年4月26日 敍任及辭令
  16. ^ a b 『官報』1901年7月20日 敍任及辭令
  17. ^ 『官報』第5531号「叙任及辞令」1901年12月9日。
  18. ^ 『官報』1902年1月24日 敍任及辭令
  19. ^ 『官報』1903年6月4日 敍任及辭令
  20. ^ a b 楓仙子 著『帝国軍人亀鑑』東雲堂 明28年9月
  21. ^ 人事興信所 編『人事興信録』(2版)、1911年、(甲) や之部 875頁 (山口十八の項)。NDLJP:779811/513 

参考文献[編集]

軍職
先代
津田正芳
歩兵第9連隊長
第3代:1877年11月12日 - 1880年4月25日
次代
高島信茂
先代
平岡芋作
歩兵第7連隊長
第4代:1880年4月25日 - 1882年3月8日
次代
仲木之植
先代
国司順正
熊本鎮台参謀長
第8代:1882年3月10日 - 1885年5月26日
次代
川村景明
先代
乃木希典
東京鎮台参謀長
第3代:1885年5月26日 - 1886年5月27日
次代
西寛二郎
先代
品川氏章
歩兵第10旅団
第3代?:1889年9月11日 - 1890年12月5日
次代
山沢静吾
先代
山沢静吾
歩兵第3旅団
第?代:1890年12月5日 - ?
次代
?
先代
奥保鞏
第5師団長
第3代:1896年10月14日 - 1904年3月17日
次代
上田有沢
日本の爵位
先代
陞爵
子爵
山口(素臣)家初代
1904年
次代
山口十八
先代
叙爵
男爵
山口(素臣)家初代
1895年 - 1904年
次代
陞爵