山口十八

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
山口十八

山口 十八(やまぐち じゅうはち、1878年明治11年)10月1日[1] - 1937年昭和12年)1月30日[1])は日本の陸軍軍人歩兵第11旅団長、近衛第1旅団長を歴任した。最終階級は陸軍少将陸軍大将をつとめた山口素臣の養嗣子[2]であり子爵

経歴[編集]

大賀幾輔の四男として生まれる[2]1899年(明治32年)11月21日に陸軍士官学校(11期)を卒業し[1]、翌年6月22日、陸軍歩兵少尉に任官[3]1904年(明治37年)9月17日、養父山口素臣の薨去に伴い子爵を襲爵した[2][4]。歩兵中尉を経て、1909年(明治42年)、陸軍大学校(21期)を卒業[1][5]。この時の同期には寺内寿一元帥陸軍大将・植田謙吉陸軍大将がいる。第13師団参謀に発令[5]

その後、歩兵将校として累進し1920年(大正9年)8月10日、歩兵大佐に進み近衛師団司令部附を命ぜられる[6]1923年(大正12年)8月6日、歩兵第15連隊長に進み、翌年8月、陸軍少将・歩兵第11旅団長に就任する[1][6]1927年(昭和2年)3月5日に陸士・陸大共に同期の森連少将(後に陸軍中将第1師団長)の後任として近衛歩兵第1旅団長に移る[1][6]1929年(昭和4年)7月30日、予備役編入となる[1][6]

家族[編集]

  • 実父・大賀幾助(幾介、春哉、大眉、1827-1884) ‐ 毛利藩儒臣[7]。萩の酒造業・大賀家に生まれ、松下村塾に入り、吉田松陰に協力、萩前小畑の泉流山窯の古窯を復興、長州戦争の兵糧用のパンを製造などを手掛け、その後大阪で鎮台出入りの御用商人となった[8]。1869年より軍靴製造業に乗り出し、手代として働いていた藤田伝三郎に製靴業を譲る[9]。母方のいとこに三浦梧楼[10]
  • 養父・山口素臣
  • 妻・ヌイ ‐ 養父・素臣の弟・山口宗太郎の次女で児玉源太郎の養女[2]。十八はヌイとの間に三男六女をもうけた。
  • 長男・元吉 ‐ 妻は東郷彪(東郷平八郎の長男)の長女・良子。

栄典[編集]

外国勲章佩用允許

脚注[編集]

  1. ^ a b c d e f g 『日本陸軍将官辞典』754頁。
  2. ^ a b c d 『平成新修旧華族家系大成』下巻、785頁。
  3. ^ 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』156、160頁。
  4. ^ 『官報』第6368号、明治37年9月19日。
  5. ^ a b 『日本陸海軍総合事典』第2版、556-557頁。
  6. ^ a b c d 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』160頁。
  7. ^ 山口十八『人事興信録』第8版、昭和3(1928)年
  8. ^ 大賀大眉(おおがたいび)萩の人物データベース
  9. ^ 『藤田組の発展その虚実』佐藤英達, 三恵社, 2008、p20
  10. ^ 古い手記から山本孝夫(幾助の曾孫)ブログ、2021.2.20
  11. ^ 『官報』第6599号「叙任及辞令」1905年6月30日。

参考文献[編集]

  • 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。
  • 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。
  • 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。
  • 霞会館華族家系大成編輯委員会『平成新修旧華族家系大成』下巻、霞会館、1996年。
日本の爵位
先代
山口素臣
子爵
山口(素臣)家第2代
1904年 - 1937年
次代
山口元吉