尾上多見太郎

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おのえ たみたろう
尾上 多見太郎
本名 川本 眞之助 (かわもと しんのすけ)
別名義 尾上 多見太朗
生年月日 (1892-06-10) 1892年6月10日
没年月日 (1947-03-10) 1947年3月10日(54歳没)
出生地 日本の旗 日本 大阪府大阪市東区今橋(現在の同市中央区
職業 俳優
ジャンル 新派劇映画時代劇現代劇剣戟映画サイレント映画トーキー
活動期間 1906年 - 1946年
主な作品
残菊物語』(1939年)
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尾上 多見太郎(おのえ たみたろう、1892年6月10日 - 1947年3月10日[1])は、日本の俳優である[2][3][4][5][6][7][8][9][10]。本名は川本 眞之助(かわもと しんのすけ)[3][5]とされるが、尾上 民美男(おのえ たみお)[2][4][10]三雲 康弘(みくも やすひろ)の説もある[6][7][8]。旧芸名は尾上 多見太朗(読み同じ)[5]新派を経て剣戟映画に転向、日活京都撮影所の悪役俳優として一世を風靡し、後年は松竹下加茂撮影所松竹京都撮影所の名脇役として活躍した[2]

来歴・人物[編集]

1892年(明治25年)6月10日大阪府大阪市東区今橋(現在の同市中央区)に生まれる[2][3][4][6][7][8][9][10]。『俳優名鑑』(大日本俳優協会)では、生年月日は「明治二十五年五月十五日」(1892年5月15日)である旨が記されている[5]

1906年(明治39年)、小学校を卒業して第二成美団に加入、大阪府大阪市にあった朝日座で初舞台を踏む[2][4][9][10]。その後、1910年(明治43年)には兵庫県神戸市にあった相生座や、大阪市にあった松島八千代座に出演し、大変な好評を博した[2][4][9][10]

1925年(大正14年)、満33歳で日活大将軍撮影所に入社[2][6][7][8][9][10]。1929年(昭和4年)に発行された『日本映画俳優名鑑 昭和四年版』(映画世界社)では、1924年(大正13年)7月に日活入社としている[4]。同年10月13日に公開された築山光吉監督映画『義刃』で映画デビューして以来、主に尾上松之助河部五郎谷崎十郎主演映画の悪役俳優として頭角を現し、人々から声援を送られるほどの注目を集める[2][9][10]。また、日活の数え歌に「五つとや、いつも悪役ひきうけて、やんやといわれる多見太郎」とも唄われていた[10]。同所もそれを無視できず、1927年(昭和2年)1月14日に公開された辻吉郎監督映画『千葉周作』を始め、10本以上の主演作品を手掛けたが、成功には至らなかった[2][9][10]。翌1928年(昭和8年)5月31日に公開された高橋寿康監督映画『享保惜春賦』で主演を務めたのを最後に同所を退社した[2][6][7][8][9][10]

1927年(昭和2年)に発行された『キネマの人々』(啓明社)などによれば、京都府京都市上京区大将軍鷹司町(現在の同市北区大将軍南一条町大将軍東鷹司町大将軍西鷹司町辺り)に住み、趣味は観劇であり、嗜好物は辛い物、、嫌いな物はお茶漬けである旨が記されている[3][4]。また、「うなぎ」とあだ名され、若い頃は澤村訥子型の猛優ぶりを発揮していたという[2][9][10]

退社後は舞台に戻ったが、この間にも富国映画社太秦発声映画の映画に出演している[2][5][6][7][8][9]。また、1935年(昭和10年)からは尾上多見太朗名義で実演活動もしていた[5]が、1938年(昭和13年)に松竹下加茂撮影所へ移籍する[2][6][7][8][9][10]。以降は脇役が殆どであったが、1939年(昭和14年)10月10日に公開された溝口健二監督映画『残菊物語』で関西歌舞伎の名門尾上多見蔵役など、多数の作品に出演した[2][9][10]

第二次世界大戦終結後も松竹京都撮影所に所属し、脇役出演を続けていたが、1946年(昭和21年)2月28日に公開されたマキノ正博監督映画『粋な風来坊』、同年12月15日に公開された溝口健二監督映画『歌麿をめぐる五人の女』の2本に出演した以降の出演作品が見当たらない[2][9][10]。以後の消息は不明[2][10]、もしくは間も無く病没[9]とされていたが、『演芸新聞』1947年3月11日付にて、去る3月10日に胃癌のため、数え年56歳(満54歳)で死去したと報じられている[1]

出演作品[編集]

日活大将軍撮影所[編集]

全て製作は日活大将軍撮影所、配給は日活、全てサイレント映画である。

日活太秦撮影所[編集]

全て製作は日活太秦撮影所、配給は日活、全てサイレント映画である。

フリーランス[編集]

特筆以外は全てサイレント映画である。

松竹下加茂撮影所[編集]

特筆以外、全て製作は松竹下加茂撮影所、配給は松竹、以降全てトーキーである。

松竹京都撮影所[編集]

全て製作は松竹京都撮影所、配給は松竹である。

脚注[編集]

  1. ^ a b 『演芸新聞』1947年3月11日付。
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q 『日本映画俳優全集 男優篇』キネマ旬報社、1979年、131頁。 
  3. ^ a b c d 『キネマの人々』啓明社、1927年、141頁。 
  4. ^ a b c d e f g h 『日本映画俳優名鑑 昭和四年版』映画世界社、1928年、28頁。 
  5. ^ a b c d e f 『俳優名鑑』大日本俳優協会、1931年、63頁。 
  6. ^ a b c d e f g 『新映画年鑑』豊国社、1940年、53頁。 
  7. ^ a b c d e f g 『日本映画年鑑 昭和十六年度版』大同社、1941年、24頁。 
  8. ^ a b c d e f g 『日本映画年鑑 昭和十七年度版』大同社、1942年、646頁。 
  9. ^ a b c d e f g h i j k l m n o 石割平 著、円尾敏郎 編『日本映画美男俳優』 戦前編、ワイズ出版、2014年、233-234頁。ISBN 978-4-89830-272-9 
  10. ^ a b c d e f g h i j k l m n o 無声映画鑑賞会 編『日本無声映画俳優名鑑』アーバン・コネクションズ、2005年、135頁。ISBN 4-900849-75-8 

関連項目[編集]

外部リンク[編集]