安念山治

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

これはこのページの過去の版です。126.14.155.249 (会話) による 2012年3月20日 (火) 05:58個人設定で未設定ならUTC)時点の版であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。

安念山 治(あんねんやま おさむ、1934年昭和9年)2月23日 - )は、北海道上川郡下川町出身で立浪部屋所属の元大相撲力士。最高位は関脇。本名は安念治。現役時代の体格は181cm、111kg。得意手は左四つ、下手投げ突き落とし

来歴

現役時代

1949年(昭和24年)に横綱羽黒山一行が巡業で名寄に来た際に勧誘されて立浪部屋に入門することになり、1950年(昭和25年)1月場所に初土俵を踏む。1953年(昭和28年)9月場所に新十両1954年(昭和29年)5月場所に新入幕を果たす。

1957年(昭和32年)5月場所、新三役小結)の場所を13勝2敗で初優勝した。このためすぐにも大関になると期待された。流石にこの時は昇進できなかったが、1959年(昭和34年)11月場所には、同部屋の新大関若羽黒が13勝2敗で初優勝し、安念山は12勝3敗だった。翌1960年(昭和35年)1月場所は若羽黒綱とり、安念山大関とりがかかった場所となったが、若羽黒は7勝8敗と負越、安念山は8勝7敗に終わりどちらも果たせなかった。土俵際でこそ強いものの、土俵中央ではあまり強くなく、しかも大鵬との対戦は21戦全敗ということも響き、結局大関にはなれなかった。現代的なマスクと筋肉質の体で女性ファンは多く、若羽黒・北の洋時津山と「立浪四天王」と謳われた。

兄弟子・若羽黒と立浪部屋の後継者の座を争ったが、1959年10月に師匠である立浪親方(羽黒山)の長女と結婚し、1961年(昭和36年)7月場所からは親方の現役名・羽黒山の四股名を継承して、後継者の座を勝ち取った。だが、横綱羽黒山の現役時代を知る者には、2人の相撲はまるで似ていなかった事から四股名の継承には反発した者が多かった。右膝を壊し1965年(昭和40年)3月場所の番付に名前を残して引退し、年寄追手風を襲名。岳父の立浪親方が1969年(昭和44年)10月に亡くなると同時に立浪部屋を継承した。

親方時代

部屋継承直後の昭和45年(1970年)には早くも理事となった。立浪部屋師匠としては先代から引き継いだ旭國(現大島)を大関に、黒姫山(現武隈)を関脇に育て上げるなど、関取を輩出し順調な滑り出しを見せたものの、後に続く直弟子がなかなか育たず、1979年(昭和54年)に旭國、1982年(昭和57年)に黒姫山が引退すると部屋の勢いは下降線をたどるようになった。そのような中で安念山は入門当時から大器と目されてきた北尾に部屋再興の希望を託し、北尾はその期待に違わず1986年(昭和61年)7月場所後に横綱に昇進し、立浪部屋の過去の横綱にちなんで双羽黒を名乗ることになった。だが北尾は、恵まれた体格と素質は誰もが認めるものの、稽古が少しでも厳しいと「故郷へ帰らせてもらいます」と自らを破門するよう頼むような台詞を連発し、師匠の安念山も北尾本人ではなく兄弟子に厳しい稽古を注意した。北尾が稽古をサボって喫茶店に行ったりしても、安念山は注意をするどころか、見て見ぬふりをしていた。

しかし、1987年(昭和62年)12月30日にその双羽黒が優勝経験もないまま付き人への暴行問題や、安念山とその女将、後援会会長らとの大喧嘩の末部屋を逃げ出してしまい、史上初めての廃業処分となると、部屋の運営には暗雲が立ち込めた。双羽黒廃業後、しばらくは関取が部屋からいなくなってしまい、かつての名門部屋はその存在感すらも示せなくなった。尚、この双羽黒の廃業劇の実態が事実上の破門であった事は、安念山自らが認めており、北尾も自らの著書の中で明かしている。だが他方では、双羽黒騒動を伝える大晦日のニュースのインタビューでは、当時の春日野理事長が安念山に対してかなり突き放した発言を残している。さらに騒動発生の背景として、双羽黒に対する指導方針、あるいは部屋の運営状態や金銭問題の縺れなど、安念山の側にも何らかの決して小さくない問題点があった事を、暗に窺わせる状況が見られていた。

その後、日本大学出身のアマ横綱山崎直樹(大翔山・現追手風)が、立浪部屋へ入門した。大翔山の関取昇進により、双羽黒廃業後沈滞していた部屋の勢いは盛り返した。そして、大翔鳳智乃花(現玉垣)をはじめとする学生相撲出身者を中心にすえた部屋の運営をおこなった。だが、部屋は学生相撲出身力士、それも一から育てずに済む幕下付出制度適用者に依存するようになり、安念山は、同じ一門の他の部屋のスカウトや後援者からでさえ「立浪は力士潰し」「力士を人として育てられない親方」と陰口を叩かれるようになった。事実、双羽黒廃業後に安念山が育てた力士の中で、前相撲から経験して幕内まで昇進した者は立洸ただ一人である(当時はまだ前相撲経験者で、関取に昇進した学生相撲出身力士は出ていなかった)。安念山は双羽黒の件を抜きにしても指導者としての力量を疑われており、相撲部屋の経営能力ばかりか、その人間性や金銭感覚に対しても懐疑視する向きは少なくなかった。

1995年4月には大島部屋の旭豊(現立浪)を長女の婿養子に迎え養子縁組を結び、停年退職を迎えた1999年2月に旭豊に部屋を後継させた。しかし、継承直後から部屋経営や指導方針の意見の違いにより旭豊と対立するようになった。挙句の果てに、旭豊引退相撲の収益を持ち逃げし、旭豊本人に渡ったのは税金の督促状だけという事態を引き起し、それが原因で養子縁組の解消、離婚となり立浪部屋は移転。その後、親方株の譲渡を巡って旭豊に対して損害賠償請求の民事訴訟を起こし、1審こそ勝訴したが、控訴審ならびに上告審では逆転完全敗訴するなど、「トラブルが絶えない(先代)立浪部屋」という醜態ばかりがなおもますます定着する事となった。

旭豊は立浪部屋を移転させた後、部屋のアドバイザーとして北尾光司(双羽黒)を招聘した。この際、それまで無縁だったこの二人を結び付けたのは双羽黒から暴行を受け脱走騒ぎを起こしたと安念山が主張していた双羽黒の元付き人の羽黒海(現在は世話人に就任し、日本相撲協会に在職)であったと言われ、双羽黒廃業の際の経緯に関する当時の安念山の主張は角界内外から再度大きな疑惑を抱かれる事となった。また、北尾は自らの著書などで、大関・横綱昇進の際の祝儀金の大半を安念山に先取りされ、自身の手元には大した金額も残らなかった事を明らかにしている。同様に双羽黒以外の力士についても、長年にわたり幕下以下力士に対して支給される手当金を着服していた、旭國・黒姫山など他の関取も昇進の祝儀金を横取りされる被害を受けていた、などといった疑惑が囁かれている。

この様に、双羽黒問題の深層には安念山の相撲部屋の経営能力、さらには親方・指導者としての資質そのものに大きな問題が有り、これが要因となって何らかの重大な金銭トラブルを引き起し、当人の意志とは無関係にこれに巻き込まれた双羽黒が、結果として横綱の権威と体面を維持できなくなる様な事態となって、廃業にまで追い込まれたのではないかという疑念が、あらためて取り沙汰されるようにまでなっている。

主な成績

  • 幕内成績:428勝427敗1分29休 勝率.501
  • 幕内在位:59場所(うち関脇13、小結7場所)
  • 三賞:殊勲賞3回(1957年5月場所、1958年7月場所、1959年11月場所)、敢闘賞1回(1958年11月場所)
  • 金星:10個(千代の山3、栃錦4、若乃花2、朝潮1)
  • 各段優勝:幕下1回(1953年5月場所)

改名歴

  • 安念 治(あんねん おさむ)1950年1月場所-1951年3月場所
  • 安念山 治(あんねんやま おさむ)1951年5月場所-1960年3月場所
  • 安念山 宏(- ひろし)1960年5月場所-1962年3月場所
  • 安念山 治(- おさむ)1962年5月場所
  • 羽黒山 宏(はぐろやま ひろし)1962年7月場所-1963年1月場所
  • 羽黒山 昇(- のぼる)1963年3月場所-1964年3月場所
  • 羽黒山 礎丞(- そじょう)1964年5月場所
  • 羽黒山 礎亟(- そじょう)1964年7月場所
  • 羽黒山 礎丞(- そじょう)1964年9月場所-1965年3月場所

年寄変遷

  • 追手風 治(おいてかぜ おさむ)1965年3月-1969年11月
  • 立浪 治(たつなみ -)1969年11月-1999年2月(定年退職)

関連項目