宅島徳光

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
宅嶋 徳光
生誕 1921年
日本の旗 日本 福岡県福岡市博多区
死没 1945年4月9日
日本の旗 日本 宮城県牡鹿郡金崋山沖
所属組織  大日本帝国海軍
軍歴 1943年 - 1945年
最終階級 海軍中尉
テンプレートを表示

宅嶋 徳光(たくしま のりみつ、1921年 - 1945年4月9日)は、大日本帝国海軍軍人作詞家海軍中尉。松島航空隊機長。

来歴[編集]

福岡市博多区生まれ。奈良屋小学校を経て旧制福岡高等学校に進み、慶應義塾大学法学部政治科を卒業後、鉄道省に奉職[1]

1943年9月に海軍航空隊へ志願し、海軍飛行科予備学生(第13期)に合格。三重海軍航空隊に入隊。1944年5月に海軍少尉に任官[2]

筆が立つことで知られ、やがて鹿児島出水海軍航空隊に移動し、飛行訓練の合間に記された手記(「くちなしの花」)は、戦後に多くのメディアで取り上げられ、出版もされている。手記の一部を引用し、美空ひばりが補作詞した「白い勲章」は、船村徹の作曲によって美空ひばりのシングルレコードとして発表されている。

沖縄特攻作戦の開始により、1945年4月9日に松島海軍航空基地を一式陸上攻撃機の陸攻機長として出撃し、7機と共に宮城県牡鹿郡金崋山沖にて任務中遭難死した[3]。享年24。

宅嶋の手記は、戦没学生の代表的な文章として非常によく知られ、文芸誌などでも何度か取り上げられている。

補注[編集]

  1. ^ 森岡清美 『決死の世代と遺書太平洋戦争末期の若者の生と死』 吉川弘文館 1993年 311P
  2. ^ 神坂次郎『特攻―若者たちへの鎮魂歌』 PHP研究所 ISBN 9784569666570 35P
  3. ^ 安田武 『戦争体験:1970年への遺書』 朝文社 1994年 259P

同期生[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]

参考文献[編集]