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姚萇

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武昭帝 姚萇
後秦
初皇帝
王朝 後秦
在位期間 384年 - 393年
姓・諱 姚萇
景茂
諡号 武昭皇帝
廟号 太祖
生年 330年
没年 393年
姚弋仲(第24子)
陵墓 原陵
年号 白雀 : 384年 - 386年
建初 : 386年 - 393年

姚萇(よう ちょう)は、五胡十六国時代後秦の創建者。

略歴

南安族の酋長の姚弋仲(74歳で没)の第24子。兄に姚襄(姚弋仲の第16子)がいる。父・姚弋仲の代には羌の勢力は小規模のために、漢趙石趙の傘下に属していた。異母兄の姚襄の代になると東晋の傘下に入った。後に姚襄は東晋と決別し、形式上は前燕に服属して淮南へ侵攻した。その後、姚襄は出身地である関中に根拠地を求めて転戦を繰り返し、357年族の前秦と戦うも、長安近郊の三原で敗死した。

兄の後を継いだ姚萇は苻堅に帰順、前秦の将として各地を転戦し、371年前仇池376年に前涼に遠征、378年から379年にかけて苻丕慕容垂と共に襄陽に遠征するなど多くの功績を立てた。383年淝水の戦いで大敗した苻堅に謀反を起こした鮮卑族の西燕慕容泓討伐を命じられ出陣したが、384年に敗れて渭北へ逃れた。逃亡先の馬牧で漢・羌の諸長から盟主に推戴され、大将軍大単于・万年秦王を称して前秦から自立した。史家はこれをもって後秦の成立とする。

385年7月、苻堅は慕容沖(慕容泓の弟)の攻撃に抗しきれず長安から脱出した。姚萇は五将山で苻堅を捕らえると新平県の仏寺に幽閉し、強引に禅譲を迫った。しかし、苻堅はこれを頑健に拒否したため、姚萇は激怒して翌8月に苻堅の一族を縊り殺した。翌386年、長安に拠っていた西燕が長安を放棄して東方へ向かうと、姚萇はさほど労せずして長安へ入城し、ここを常安と改称して帝位に即き、国号を大秦と定めた。しかし、苻堅の跡を継いだ苻丕や苻登は、前秦の残党を結集して攻勢に転じ、姚萇の存命中には前秦の勢力を壊滅させることができなかった。

姚萇には姚碩徳・姚緒・姚旻などの優秀な弟達や、尹緯・狄伯支など天水郡出身の漢人豪族の活躍がめざましく、いきおい、その集団も南安・天水二郡の隴西出身者で固めた特異なものとなった。393年、64歳で病没し、長男の姚興が後を継いだ。

死の直前、病床にあった姚萇は、ある夜、夢に苻堅の怨霊が出現した。姚萇は錯乱し、思わず平伏して「主上(苻堅)の御命を奪ったのは愚兄の襄でありまする。私は無罪でございまする」と叫んだ。この時、苻堅に随っていた亡霊に矛を投げられ、姚萇はそれが自分の陰部に当たった所で夢から覚めた。目が覚めると、なんと自分の陰部は大きく腫れ上がっていた。やがてそれは破裂して大量に出血し、姚萇は絶命したと言われる。

宗室

后妃

皇子

関連項目

先代
後秦皇帝
第1代:384年 - 393年
次代
高祖