慕容垂
| 成武帝 慕容垂 | |
|---|---|
| 後燕 | |
| 初代皇帝 | |
| 王朝 | 後燕 |
| 在位期間 | 384年 - 396年 |
| 姓・諱 | 慕容垂 |
| 字 | 道明 |
| 諡号 | 成武帝 |
| 廟号 | 世祖 |
| 生年 | 326年 |
| 没年 | 396年 |
| 父 | 慕容皝(第5子) |
| 陵墓 | 宣平陵 |
慕容 垂(ぼよう すい、拼音:Mùróng Chuí)は五胡十六国時代の後燕の創建者。
目次 |
[編集] 生涯
[編集] 前燕の部将
鮮卑慕容部の出身。前燕の慕容皝の第5子として生まれる。兄に慕容儁、慕容恪、弟に慕容納、慕容徳など。初名は「覇」だったが、ある日落馬して歯を折る大怪我をし、長兄の慕容儁によって「𡙇」(偏が垂、旁が夬、「缺」と同字、常用漢字では「欠」)と改名させられた。その後さらに旁の「夬」を取り除いて「垂」と変えられた。
父からは寵愛され、342年の高句麗、344年の宇文逸豆帰討伐に従軍、348年に父が亡くなり兄が即位した後は後趙を滅ぼした冉閔が建てた冉魏討伐にも参戦、戦功により352年に呉王に任命され、侍中・右禁将軍・録留台事にも任じられ、征南将軍・荊州・兗州牧も兼ねて南境に配置された。360年に兄が死去、甥の慕容暐が即位した時は慕容暐の補佐役になった次兄慕容恪に重用され、365年に慕容恪と従軍して東晋の桓温に奪われていた洛陽を奪還した。369年に前燕の北伐に向かった桓温軍を枋頭(現在の河南省浚県)で打ち破り、名声を挙げた。
しかし、それが逆に叔父で太傅の慕容評と皇太后の可足渾氏に恨まれ、排除の動きがあったため、慕容垂は前秦の苻堅の下に亡命した。
[編集] 前秦に仕官
苻堅からは歓迎され、冠軍将軍に任命され、賓都候に封ぜられた。反対に苻堅の側近王猛からは警戒され、苻堅に慕容垂を誅殺するよう要請したが、苻堅は聞き入れなかったため難を逃れた。慕容垂の亡命により前燕は衰退、翌370年に前秦の遠征で滅亡した。前燕滅亡後は前秦の部将として活動し、378年に苻堅の子苻丕・姚萇と共に東晋方の襄陽城を攻撃、翌年に朱序を降伏させた。
383年に淝水の戦いに参戦したが、東晋の宰相謝安の指揮の下謝玄・謝石ら東晋軍に前秦軍は大敗、慕容垂の軍は無傷だったため苻堅を長安まで送り、撤退を援護した。戦後、北方の反乱平定を苻堅に上奏し、認められ出陣して北方を平定、前秦に反乱を起こした丁零の翟斌を従え河北一帯に勢力を築き、鄴に駐屯していた苻丕を攻撃、翌384年正月に中山(河北省定県)を都として燕王を自称、元号を燕元と改元して後燕を創建した。
甥で慕容暐の弟慕容泓・慕容沖兄弟もこの機に乗じて西燕を建て、弟の慕容徳が慕容垂に従うなど他の慕容部も前秦から離れていった(慕容暐は苻堅に殺害された)。慕容垂は自立した後も前秦の臣下に留まっていたが、385年に姚萇が苻堅を殺害して後秦を建国した翌386年1月に中山で皇帝を称して完全に自立した。苻丕は鄴で持ちこたえていたが、援軍に赴いた劉庫仁が慕容垂の息子慕容麟に敗れたため、鄴から脱出した。
[編集] 後燕建国後
皇帝に即位後、慕容徳を車騎大将軍・范陽王に封じ、息子の1人慕容農を遼東半島に派遣させ、高句麗から遼東半島を奪取した。392年に翟魏を討伐、394年に西燕も滅ぼし、山東を東晋から奪回するなど領土拡大に邁進、かつての前燕を上回る領土を手に入れた。また、公孫表・賈彝・宋隠・屈遵らを登用、漢人の登用も進めて流民も受け入れ、国力の増大を図った。
395年、病気のため子の慕容宝を北魏に派遣したが、北魏王拓跋珪に大敗して軍の大半を失った(参合陂の戦い)。翌396年、慕容垂は自ら北魏に出兵、北魏の都平城を落として拓跋珪を追放したが、遠征中に70歳で没した。慕容宝が後を継いだが、北魏が勢いを盛り返し、首都中山に迫るなど後燕と北魏の勢力関係は覆り、後燕は衰退していった。
[編集] 人物・逸話
- 身の丈は七尺七寸、手の長さは膝を過ぎるほどあったという。
- 王猛が慕容垂排除を苻堅に進言した理由は、慕容垂は聡明ながらいつかは自立すると見越していたためとされる。苻堅は取り合わなかったが、淝水の戦い後に王猛の懸念は現実となり、慕容垂は前秦から自立していった。
[編集] 宗室
[編集] 后妃
[編集] 子
[編集] 伝記資料
- 『晋書』巻123、載記第23
[編集] 参考文献
[編集] 関連項目
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