慕容泓

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索

慕容 泓(ぼよう こう、生年不詳 - 燕興元年(384年))は、五胡十六国時代西燕の創始者。前燕の第2代皇帝景昭帝の子。燕王あるいは燕帝を自称していないが、独自の元号を立てて自立しており、実質的な西燕の建国者とされている。

生涯[編集]

前燕では済北王に封じられていた。建熙11年(370年)に前秦の攻撃を受けた兄の幽帝が降伏して前燕が滅びると、慕容泓を始めとする多くの鮮卑慕容部族は関中へと移住した。

建元19年(383年)に前秦が淝水の戦いで敗退、国内の各部族での影響力が弱まると、翌建元20年(384年)に叔父の慕容垂が河北で叛乱を起こした。前秦から北地長史に任じられていた慕容泓はこの報を聞くや、即座に関東の鮮卑部族を集結させ、都督陝西諸軍事、大将軍雍州、済北王を自称し、慕容垂を呉王と表奉した。当初は前燕の故地に戻り、慕容垂への帰順を考えたが、前秦軍を撃破すると西進し、燕興と改元した。しかし弟の慕容沖を擁立しようとする高蓋などにより、間もなく殺害された。死後、慕容沖によって粛宗の廟号と烈文皇帝の号が追尊された。

先代:
西燕済北王
384年
次代:
威帝