慕容永

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慕容永
西燕
第7代皇帝
王朝 西燕
在位期間 386年 - 394年
姓・諱 慕容永
叔明
生年 不詳
没年 中興9年(394年
年号 中興 : 386年 - 394年

慕容 永(ぼよう えい)は、五胡十六国時代西燕の第7代(最後の)皇帝。

生涯[編集]

前燕の創始者慕容皝の弟慕容運の孫とされるが、父は不明。建熙11年(370年)に前燕前秦によって滅亡させられると、多くの鮮卑慕容部族と共に関中に遷り、長安に居住していた。しかし生活は困窮し、妻子と共に市で靴を販売して生計を立てていたと伝えられる。

建平元年(386年)の政変で慕容永は慕容瑤を殺害して慕容忠を皇帝に擁立、自らは太尉、守尚書令となり、河東公に封じられた。数ヶ月後、慕容忠が将軍の刁雲により殺害されると、慕容永は大都督大将軍、大単于四州、河東王として後燕の成武帝慕容垂に一時帰順した。さらに数ヵ月後、慕容永は皇帝として自立、中興と改元、ここに西燕が復活する。同年、南下した前秦の苻丕を撃破した(襄陵の戦い)。

中興8年(393年)、後燕による西燕攻撃が行われ、翌中興9年(394年)に慕容永は殺害されて西燕は滅亡した。

先代:
慕容忠
西燕の第7代皇帝
386年 - 394年
次代:
滅亡