堀井哲也

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堀井 哲也
JR東日本硬式野球部 監督
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 静岡県
生年月日 (1962-01-31) 1962年1月31日(62歳)
身長
体重
177 cm
90 kg
選手情報
投球・打席 右投左打
ポジション 外野手
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
監督・コーチ歴

堀井 哲也(ほりい てつや、1962年1月31日 - )は、社会人野球選手(外野手)・指導者。現在はJR東日本監督。

経歴

静岡県田方郡函南町出身。静岡県立韮山高等学校から慶應義塾大学を経て三菱自動車川崎に入社したが、現役生活は4年と短かった。この間垣野多鶴監督に師事している。

現役引退後は1988年からコーチ・マネージャーを務め、1993年三菱自動車岡崎の創部に伴って転籍した。1997年からは監督に就任、激戦の東海地区にあってチームをまたたく間に都市対抗野球・日本選手権の常連へと押し上げ、山口和男福川将和竹原直隆などのプロ野球選手を育てた。

2004年シーズン途中で三菱自動車岡崎の野球部が活動停止となり、翌2005年からはJR東日本に移籍。ここでも寺内崇幸川端崇義十亀剣などをプロへ送り出している。

JR東日本では都市対抗野球大会2005年は2回戦敗退、2006年はベスト4、2007年は準優勝と徐々にステップアップし、2011年は決勝で垣野率いるNTT東日本を破り、チームを初の頂点に導いた。

エピソード

  • マネージャー職を長く務めていたこともあり、野球部の関係者だけでなくJR東日本本社の関係者からも「気配りが服を着て歩いている人」と称されている。
  • 2004年三菱自動車工業不祥事に伴って三菱自動車岡崎の野球部がシーズン途中で活動停止となった際には、移籍するか会社にとどまるか「髪がなくなるくらいまで散々悩み抜いた」末(本人談)、「断腸の思いで」移籍を決断したという。
  • 2006年、当時シダックスに在籍していた森福允彦(現ソフトバンク)はJR東日本の補強選手として呼ばれた際に堀井の指導法に感銘を受け、シダックスの廃部が決定した際には「ドラフト指名されなければJR東日本に移籍する」と決めていたという。
    • しかしそんな堀井だが、三菱自動車岡崎のコーチだった際に指導していた谷佳知夫人を紹介された際には、ただ圧倒されるばかりだったようだ。
  • 2007年には当時大学を中退して野球から離れていた小杉陽太(現横浜)を自ら捜し歩いて見つけ出し、チームに勧誘。後に小杉をチームの主戦投手の1人に成長させた。
  • 三菱自動車岡崎の監督時代は「オープン戦は人に見せるものではない」という考えから、チーム関係者に対してオープン戦の日程に緘口令を敷いていた。このため、三菱自動車岡崎のファンは対戦相手のチームからオープン戦の試合日程を探らなければならず、観戦に非常に苦労したという。
    • しかしJR東日本がグラウンドを海浜幕張から柏に移して以降は「より多くの方々に応援していただくためには、自分たちの日頃の取り組みの姿を見てもらうことが不可欠」として、オープン戦の日程の公開に対しては積極的なスタンスに変化している。

輩出したNPB選手

通算して10年以上企業チームの指揮を執っており、多数の教え子がNPBチームからドラフト指名を受けた。
三菱自動車岡崎時代

JR東日本時代