土岐成頼

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

これはこのページの過去の版です。Tribot (会話 | 投稿記録) による 2012年3月24日 (土) 05:54個人設定で未設定ならUTC)時点の版 (bot: WP:BOTREQ#令制国の守・介カテゴリの除去 oldid=41765954)であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。

 
土岐成頼
時代 室町時代 - 戦国時代
生誕 嘉吉2年(1442年
死没 明応6年4月3日1497年5月5日
別名 宗安(法名)
戒名 瑞龍寺殿文宗安大居士
墓所 岐阜県岐阜市寺町の瑞龍寺
官位 美濃守、左京大夫
幕府 室町幕府美濃守護
氏族 一色氏土岐氏
父母 父:一色義遠?、養父:土岐持益
政房、次男(六角高頼猶子)、定頼元頼
テンプレートを表示

土岐 成頼(とき しげより)は、室町時代から戦国時代武将守護大名美濃守護。土岐氏第11代当主。土岐持益の養子。実父は一色義遠一色義直は伯父とされている[1]が、異説もある。

生涯

美濃守護土岐持益の嫡男持兼が早世したため、持益は孫で持兼の子の亀寿丸を後継ぎにしようとしたが、守護代斎藤利永がこれに反対して一色氏出身(諸説あり、土岐氏の一族の饗庭氏ともされる)の成頼を擁立して抗争となり、康正2年(1456年)に持益は隠居させられ成頼が守護となった。室町時代の中頃から多くみられるようになった守護代が守護の力を凌ぐ事例の一つで、美濃でも実権は守護代の斎藤氏が掌握していた。

応仁元年(1467年)、応仁の乱が起こると成頼は西軍に属した。成頼は8000余騎を率いて京都に在陣して戦い、美濃本国は守護代の斎藤妙椿(近年では甥の斎藤利藤が守護代で妙椿はその後見人であったと考えられている)が守った。有力国人富島氏長江氏(かつての守護代で斎藤氏に敗れて追われていた)が東軍に加わって斎藤方を攻撃して美濃は内乱状態になる。妙椿は富島氏・長江氏を破った上、東軍が幕府と朝廷を擁している以上敵の拠点になる恐れがあるとして幕府奉公衆の所領をはじめ、公家や寺社の荘園国衙領押領し国内を固めた。妙椿の勢力は尾張伊勢近江飛騨まで広がり、成頼を意のままに動かし、更には西軍を左右するまでの存在になる。

文明9年(1477年)、応仁の乱の講和がなると成頼は西軍の名目上の総帥だった足利義視義材の父子を庇護して美濃へ帰国した。義視父子は11年間、革手城に滞在している。文明12年(1480年)に妙椿が死去すると2人の甥、守護代・斎藤利藤と異母弟の利国(斎藤妙純)が後継を巡って争った(美濃文明の乱)。利国が勝利して斎藤氏の力はさらに強まった。

長享元年(1487年)に長享・延徳の乱が発生して9代将軍足利義尚による六角高頼親征が始まると、次の標的は義視父子を擁している自分であると考えた成頼は突如挙兵して美濃山中に立て籠もって幕府軍を迎え撃つ準備を始めた。結果的に義尚の病死によって六角攻撃そのものに失敗し、美濃侵攻は起こらなかった。

明応3年(1494年)、成頼は四男の元頼を溺愛し、嫡男の政房を廃嫡して元頼に家督を継がせようと小守護代石丸利光に元頼を擁立させ、政房を推す妙純と戦うが、妙純を説き伏せ、西尾直教を追放する形で一時的に和解させる(船田合戦)。翌明応4年(1495年)6月、成頼は再び妙純と戦うが敗れる。同年7月、斎藤方と戦い敗走し、政房に家督を譲り、隠居して宗安と名乗った。元頼と石丸利光はなおも抵抗したが、明応5年(1496年)に妙純に敗れて自殺した。翌明応6年(1497年)に死去、享年56。

実際には斎藤妙椿によって国政を牛耳られていたとはいえ、その在世中は船田合戦を引き起こした晩年期を除けば、美濃の内外における土岐氏の名声が非常に高まった時期でもあった。このため、多くの文化人が戦乱を避けて美濃に逃れてきた。しかし、斎藤妙純・利親父子は船田合戦終結後に近江に遠征して戦死、土岐氏は国人の傀儡に過ぎなくなり、斎藤氏も衰退、美濃は混乱に見舞われることになるのである。

脚注

  1. ^ 伝えられている義直(1431年生)、成頼(1442年生)の生年が正しいならば、義直の弟である義遠の10歳前後の頃の子ということになる。

参考文献

関連項目

先代
土岐持益
美濃土岐氏第11代当主
1456年 - 1495年
次代
土岐政房