善福寺 (杉並区)

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善福寺(ぜんぷくじ)は、東京都杉並区町名。現行行政地名は善福寺一丁目から四丁目。住居表示実施済み区域である。郵便番号は167-0041。

善福寺公園

地理

杉並区の最北西部に位置する。町域の北部から西部にかけては弧を描くように練馬区関町南に接している。西部は一部練馬区立野町にも接する。南西部は武蔵野市吉祥寺東町に接する。北東部から東部一帯にかけては青梅街道に接し、これを境に北東部は杉並区上井草に、東部は杉並区今川に、南東部は杉並区桃井に接する。南東端は杉並区上荻にも接する。南部は女子大通りを境に杉並区西荻北に接する。主に住宅地として利用される。町域中央付近の二丁目と三丁目には、善福寺公園が作られている。善福寺池を中心に、緑も多く憩いの場として知られている。また、この善福寺池を水源に善福寺川も流れ、町域内も流れている。また東部の青梅街道沿いには、井草八幡宮がある。また南西部の二丁目の武蔵野市との境界付近に東京女子大学があり、学生の姿も見かけられる。

同潤会西荻窪普通住宅

現在の善福寺2丁目にあたる現在さくら町会と呼ばれる地域に同潤会によって住宅が214戸たてられている。現在は当時の住宅は建て替えられ一部現存するだけとなっている。並木となっており、住宅地の中心に十字路が形成され、町内会館などがある。借地分譲で昭和7年に供給開始。住宅地の北側には知る区ロードポケットパーク「はだしのオアシス」がある。

歴史

現在の『善福寺』

地名の由来

町域内には善福寺という寺院も存在するが、これは福寿院という寺院が後年地名をとって改名されたものであり、地名の由来にはなっていない。地名の由来となっているとされる元の善福寺は善福寺池のほとりにあったが、江戸時代に災害により壊滅しそのまま廃寺になったため現存しない。この廃寺は史料に乏しく東京・麻布にある麻布山善福寺の奥の院であるという説と、麻布山善福寺とは無関係な寺院であるという説があり、その実態はよく分かっていない。公園も現在の地名も、この廃寺となった元の善福寺が由来となっている。

井荻土地区画整理事業

善福寺を含む旧井荻村は、地元の篤農家出身の内田秀五郎村長(1876-1975)のリーダーシップのもと1925年(大正14年)から1935年(昭和10年)まで10年の歳月をかけて総面積8.4平方キロの区画整理事業を完成した。それまで満足に整備された道路がないため悪天候の際には通行に支障を来す程であったが、完成後は各街区を約2,000坪とする碁盤目状の整然とした町並みが形成された。これによって現在の閑静な住宅地域としての善福寺が誕生したといえる。

井荻町営水道

区画整理と共に進められたものとして水道事業がある。井荻町が1930年(昭和5年)から工事を開始し1932年(昭和7年)に杉並区として東京35区に編入された時に東京市水道局に移管された。善福寺池南畔の丘の上に設けられたこの施設は現在でも不定期で使用されており、杉並浄水所として東京都区部で唯一地下水を利用した浄水場として知られる。善福寺西荻北の一部に給水している。

善福寺風致地区

1930年5月に洗足石神井江戸川と共に風致地区に指定され、善福寺風致協会が設立された。ここでも内田秀五郎は私財を投じて風致地区の整備に尽力した。当初、隣接する板橋区石神井関町(現:練馬区関町南)に跨がる60.4haにも及ぶ広範囲だった指定区域は1963年の大規模な見直しによって29.2haに半減した。また、都市化や地価高騰に伴って、風致地区内に多く見られた大邸宅は近年著しく減少し、ミニ開発が目立つようになった。

交通

町域内に鉄道駅はない。JR中央線荻窪駅西荻窪駅吉祥寺駅西武新宿線上石神井駅などへのバス便の利用者が多い。

施設

外部リンク