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南詔

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8世紀のアジア

南詔(なんしょう)は、8世紀半ば、中国西南部、雲南地方の海地区に勃興したチベット・ビルマ語族王国。最盛期には四川東南アジアにまで勢力を拡大した。

建国

雲南の地は古くから中国とインドを結ぶ西南シルクロードが通る重要な交通路であり、中国王朝の勢力は時に雲南を抑えることもあったが、必ずしも浸透していなかった。8世紀半ば、吐蕃の勢力がこの地方に南下して来ると、交易ルートの確保を巡ってと吐蕃の角逐が起こった。

当時、雲南の海地区(現代の雲南省大理)には六詔と呼ばれる政治権力があった。詔(チャオ)はを意味するタイ語、チャオ(このチャオという言葉自体、中国語の「主」の借用語であるとする説もある)に関連すると考えられるが、彼らは烏蕃と呼ばれるチベット・ビルマ語族であった。六詔の最南部に位置する蒙舎詔は初代・細奴羅が7世紀半ばに唐に朝貢したことが記録されており、第4代の皮羅閤という者が唐朝の後押しを得て六詔の統一に成功する。738年に唐は皮羅閤を雲南王に冊封しており、この年を南詔建国と見ることができる。

蒙舎詔は六詔の南部にあったことから南詔と称したものである。皮羅閤はさらに池地区(現在の雲南省昆明)にまで勢力を拡大し、雲南全体の統一に乗り出した。南詔の予想以上の勢力拡大によって、西南交易ルートを南詔に抑えられる形となった唐朝には面白いはずがなく、南詔は次第に唐と対立するようになった。

吐蕃との同盟

そこで、南詔は雲南西北部に勢力を延ばしていた吐蕃と同盟し、752年、閤羅鳳は吐蕃の冊封を受け、兄弟の国として東帝の号を賜った。754年、唐の剣南留後(四川長官)が南詔を攻撃してきたが、吐蕃と南詔の連合軍に破られ、全軍覆没している。この時、唐軍の戦死者を葬った塚が天宝戦士塚として、今も大理市内に残っている。

その後、唐では安史の乱が起こったので、吐蕃と南詔は四川南部を攻略した。この頃、吐蕃は唐の都長安(現・陝西省西安)を一時占領するほどの勢いであった。779年には、吐蕃・南詔連合軍は20万の大軍をもって成都占領を目指したが、すでに国力を回復していた唐軍に撃退された。

この頃、南詔は苴哶城(現・雲南省大理)に遷都している。大理はこれ以降南詔・大理の定都となった。

唐との会盟

唐朝は吐蕃の勢力を押さえるため、南詔を吐蕃から引き離す工作を進め、時の南詔王・異牟尋は793年、帰唐の意を伝えた。翌年、唐の使者が南詔の都に到来し、洱海のほとり蒼山で会盟の儀式が行われた。当時、吐蕃は北方のウイグルとの戦いの最中であったので、異牟尋は吐蕃の神川都督府(現・雲南省麗江)を攻撃して占領した。これによって南詔と唐の関係は強固となり、南詔は成都に子弟を留学させるようになった。

最盛期

9世紀以降、唐と吐蕃が国力を衰退させると、南詔は唐との同盟を翻し、829年には長駆して成都を襲った。成都占領は成功し、南詔軍は略奪の限りを尽くして引き上げた。その後、南詔軍は矛先を南に転じて、東南アジアビルマタイラオスカンボジアなどを攻め、海の見えるところにまで達したという。また、ビルマのピューの人々も南詔軍に襲われ、雲南地方に移住させられたという。

859年、時の南詔王世隆はついに皇帝を自称し、国号大礼国と名乗った。翌年、南詔軍は中国領ベトナムを攻め、交州(ハノイ)の安南都護府を攻略、おりしも唐は黄巣の乱によってなすすべもなかった。反乱軍に追われて成都に逃れていた唐の僖宗は、南詔を懐柔する必要に迫られ、ついに公主(皇帝の娘)を南詔王隆舜に降嫁させた。

滅亡

しかしその隆舜も近臣に殺され、その子・舜化貞が即位すると、権臣が専横を極め、王室の権力は形骸化する。さらに902年、舜化貞が死去すると、漢人の権臣・鄭買嗣は舜化貞の子を殺害して宮廷クーデターを発動し、南詔蒙氏王室800人を殺害した。ここに皮羅閤から10代、164年続いた南詔は滅亡した。

その後、長和、天興、義寧の短命政権が続くが、938年、段氏によって大理国が樹立された。

歴代国王

  • 細奴羅(在位653年 - 674年)
  • 羅盛(674年 - 712年)
  • 盛羅皮(712年 - 728年)
  • 皮羅閤(728年 - 748年)
  • 閤羅鳳(748年 - 779年)
  • 鳳伽異
  • 異牟尋(779年 - 808年)
  • 尋閤勧(809年)
  • 勧竜晟(810年 - 816年)
  • 勧利晟(816年 - 823年)
  • 勧豊祐(824年 - 859年)
  • 世隆(860年 - 877年)
  • 隆舜(878年 - 897年)
  • 舜化貞(897年 - 902年)

関連項目

外部リンク