劉氏
劉氏(りゅうし)は、中国の氏のひとつ。現代中国において最も数の多い五大姓(李・王・張・趙・劉)の一つに数えられる。歴史的には漢(前漢、後漢、蜀、劉宋、前趙、五代の後漢)の国姓である。劉姓の2006年11月の人口は6528万人である。
劉氏の起源
- 堯の子孫である祁姓の劉氏。堯の嫡流(一説には堯の長孫の式、一説には堯の第九子の源明、一説には堯の子の丹朱)の子孫が劉邑に封じられ、以来その地名を氏としたという。
- 周文王の後裔の姬姓の劉氏。周成王が曾祖父の王季の子孫を劉に封じたが(河南偃師)、後に絶えた。後に、定王が劉邑に王弟の王季子(父は頃王)を封じ、季子は劉康公を称し、劉国を建てた。但し周後期には、この支流は没落した。
なお、姫姓と祁姓はともに黄帝を祖としている。
漢の劉氏
前漢の劉氏
前漢の劉氏の起こりは、沛の農民の生まれである劉邦が、秦の始皇帝死後の混乱に乗じて台頭し、勢力拡大、宿敵である項羽を討って漢(前漢)を建てたことに始まる。以来、劉氏は漢の皇室として存続した。しかし、外戚であった王莽が前漢最後の皇帝孺子嬰より禅譲を受けると、皇室としての劉氏は一旦は滅亡した。劉邦については多くの伝承があり、家系については様々な議論があったが、司馬貞は「晋の士会の子孫」としているが、これに対して銭大昕は「劉太公(劉邦の父)以前は姓を考えるような身分ではなかった。どうして祖先の姓がわかるだろうか」と述べている。正史とされる史書の中では『漢書』と『新唐書』が劉邦の出自に言及している。
贊曰:《春秋》晉史蔡墨有言:陶唐氏既衰,其後有劉累,學擾龍,事孔甲,范氏其後也。而大夫范宣子亦曰:「祖自虞以上為陶唐氏,在夏為禦龍氏,在商為豕韋氏,在周為唐杜氏,晉主夏盟為范氏。」范氏為晉士師,魯文公世奔秦。後歸於晉,其處者為劉氏。劉向云戰國時劉氏自秦獲于魏。秦滅魏,遷大樑,都于豐,故周市說雍齒曰:「豐,故梁徙也。」是以頌高祖云:「漢帝本系,出自唐帝。降及于周,在秦作劉。涉魏而東,遂為豐公。」豐公,蓋太上皇父。其遷日淺,墳墓在豐鮮焉。及高祖即位,置祠祀官,則有秦、晉、梁、荊之巫,世祠天地,綴之以祀,豈不信哉!由是推之,漢承堯運,德祚已盛,斷蛇著符,旗幟上赤,協於火德,自然之應,得天統矣。(以上、『漢書』高帝紀第一より)
劉氏出自祁姓。帝堯陶唐氏子孫生子有文在手曰:「劉累」,因以為名。能擾龍,事夏為御龍氏,在商為豕韋氏,在周封為杜伯,亦稱唐杜氏。至宣王,滅其國。其子隰叔奔晉為士師,生士蒍。蒍生成伯缺,缺生士會。會適秦,歸晉,有子留於秦,自為劉氏。生明,明生遠,遠生陽,十世孫,戰國時獲於魏,遂為魏大夫。秦滅魏,徙大梁,生清,徙居沛。生仁,號豐公。生煓,字執嘉。生四子:伯、仲、邦、交。邦,漢高祖也。(以上、『新唐書』表第十一より)
後漢の劉氏
前漢に代わって建てられた王莽の新は民心をつかめず崩壊し、前漢の皇室の傍系出身であった劉秀が光武帝として即位し、後漢を建てた。前漢の劉氏の後裔であるが、前漢の皇族を冷遇したとされる。
蜀漢の劉氏
後漢の滅亡後、魏(曹魏)・呉(孫呉)・蜀(蜀漢)の三国が覇権を争う三国時代となった。このうち蜀漢を建てた劉備は、前漢の景帝の第8子である中山靖王劉勝の庶子、陸成亭侯劉貞の直系の末裔と称した。
その他の劉氏
漢王朝の滅亡後も、南北朝時代の宋(劉宋)の劉裕が劉邦の弟(従弟の説あり)である楚元王劉交の子孫を称したほか、前趙を建てた劉淵を始めとする匈奴の有力氏族、五代十国時代の後漢を建てた劉知遠が劉氏の子孫を名乗っている。また、遼(契丹)の耶律氏も漢風の姓として劉氏と称している。
中国以外の劉氏
4世紀から6世紀にかけて日本列島に多く渡来した中国系の渡来人の多くが、劉邦または漢王室の子孫を称している。特に東漢氏と西漢氏が有名である。東漢氏の子孫に坂上田村麻呂がいる。
朝鮮半島にも劉姓は存在しており、中でも北宋の神宗の時代に高麗に帰化した劉筌を始祖とする江陵劉氏が最大である。ちなみに劉筌は劉邦の40世孫であるという。