共産主義再建党

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イタリアの旗 イタリア政党
共産主義再建党
Partito della Rifondazione Comunista(PRC)
書記長 パオロ・フェッレーロ
成立年月日 1991年
本部所在地 ローマ
代議院議席数
0 / 630   (0%)
(2008年4月15日)
元老院議席数
0 / 322   (0%)
2008年4月15日
党員・党友数
37,241
2011年
政治的思想・立場 虹の左翼(SA)
共産主義ユーロコミュニズム
反グローバリゼーション
機関紙 リベラツィオーネ
シンボル 党章
国際組織 欧州左翼党
公式サイト Partito della Rifondazione Comunista
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共産主義再建党(きょうさんしゅぎさいけんとう、イタリア語: Partito della Rifondazione Comunista, "PRC")は、イタリア政党書記長は、パオロ・フェッレーロ(第4代)。

共産党再建派(きょうさんとうさいけんは)とも訳す。

概要

イタリア共産党から左翼民主党への移行に反対する党内左派グループを中心に結成。

歴史

発足

1991年、イタリア共産党が共産主義を放棄し社会民主主義政党への移行を目指したことに反発したファウスト・ベルティノッティを中心とする党内左派グループが、バンディラ・ロッサ・グループ(国際組織・第四インターナショナル統一書記局派のイタリア支部)と合流して結成した。

1996年の総選挙においてロマーノ・プローディ率いる中道左派連合「オリーブの木」がシルヴィオ・ベルルスコーニ率いるフォルツァ・イタリアを破ったが議会過半数に及ばなかった。そこで当時書記長であったベルティノッティは閣外協力で合意したことによりプローディ政権が発足、再建党は与党入りした。

しかし1998年9月、欧州単一通貨・ユーロの導入などを巡り政権への不信感を高めた党内のベルティノッティ派が内閣不支持を表明。プローディ内閣不信任決議案代議院(イタリア下院)において1票差で可決される事態に陥った。このようなベルティノッティの党運営に不満を持ったアルマンド・コッスッタ派が離党し、イタリア共産主義者党を結成、オリーブの木に残留したがプローディ内閣は総辞職した。

プローディ退陣後のマッシモ・ダレマジュリアーノ・アマート政権では再び閣外協力を行ったが、2001年にベルルスコーニ率いる中道右派連合へ政権交代してからは政権奪回のため、2006年に「オリーブの木」を発展した「ルニオーネ(連合)」に加わった。

現在

2006年の総選挙でルニオーネは勝利し、第2次プローディ内閣が発足。閣僚ポストのほかベルティノッティが代議院議長に就任、それに伴いフランコ・ジョルダーノが書記長に就任したことから、党執行部は現実路線への転換を模索し始めた。

しかし2007年1月、イタリア軍のアフガニスタン派遣延長を決定した政権に対してバンディエーラ・ロッサ・グループを中心に党内反対派グループ「批判的左翼協会」(アソシアツィオーネ・シニストラ・クリティカ)を結成し党内外で運動を活発化させ、派遣延長案を元老院(イタリア上院)において否決に追い込んだ。その後党執行部による「批判的左翼」賛同議員への圧力の結果、プローディ内閣に対する内閣信任決議は可決されたため事なきを得たが、同年末に「批判的左翼」に所属する議員、活動家が一連の党執行部の動きを批判して離党、政治運動組織「批判的左翼」を発足した。

2008年総選挙での敗北

2007年10月には民主党が結成され(左翼民主主義者とマルゲリータの統合による)、両院で第1党となりルニオーネにおける主導的地位を確立したことに対する危機感から、ルニオーネ内の左派3党(イタリア共産主義者党民主的左翼緑の連盟)とともに政治連合「虹の左翼」(La Sinistra – L'Arcobaleno)を結成した。しかし、翌2008年4月の総選挙では「自由の人民」と民主党の2大政党間の対決に埋没する形となり「虹の左翼」の得票率は上下両院共に3%台に留まり、議席を確保できず、再建党もイタリア議会における議席を全て失う結果となった。選挙直後の7月にキアンチアーノで行われた第7回党大会(7月24日~27日)では今後の党路線を巡って激しい論戦が繰り広げられ、前政権で共同していた民主党との連携を原則的に拒否し、共産主義政党として独自性を追求する路線が採択された。新しい書記長にはパオロ・フェレーロ前社会連帯相が選出された[1]

2011年第8回党大会

2011年12月2~4日、第8回党大会をナポリで開いた。150人の全国政治委員会を選出し、同委員会は書記長にパオロ・フェレーロを再選した。11月にシルヴィオ・ベルルスコーニ右派政権が崩壊した後に発足したマリオ・モンティ内閣に対しては「モンティ政権の政策は労働者の利益に反し、緊縮財政を実施するならゼネストで応じるべき」と強調し、「自由の人民」と民主党の2大政党も緊縮財政を容認していると批判した。そして右派政権に対抗するための広範な左翼勢力の連合を呼びかける大会決議を賛成多数で可決した[2]

国際党間交流

  • 日本共産党
    • 第22回(2000年11月)[3]、第23回(2004年1月)[4]、第24回(2006年1月)大会[5]に来賓参加。なお共産党からは再建党の第7・8回党大会にメッセージを送ると共に、しんぶん赤旗の現地特派員が代表として出席している[1][2]

歴代書記長

脚注

  1. ^ a b “伊共産主義再建党大会が閉幕”. しんぶん赤旗. (2008年7月29日). http://www.jcp.or.jp/akahata/aik07/2008-07-29/2008072907_04_0.html 2011年12月20日閲覧。 
  2. ^ a b 「伊共産主義再建党が大会 左派連合を呼びかけ」。しんぶん赤旗2011年12月6日付7面(国際面)
  3. ^ 『前衛』2001年2月号臨時増刊号「日本共産党第22回大会特集」312頁~313頁
  4. ^ 党大会に出席の外国来賓、オブザーバー」しんぶん赤旗2004年1月14日
  5. ^ 党大会に参加 外国政党代表の紹介」しんぶん赤旗2004年1月13日

外部リンク