住吉会

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住吉会
代紋
設立者阿部重作
設立場所東京都港区赤坂
本部〒107-0052
東京都港区赤坂6-4-21ニュー赤坂マンション2階[1]
北緯35度40分14.6秒 東経139度44分5.5秒 / 北緯35.670722度 東経139.734861度 / 35.670722; 139.734861座標: 北緯35度40分14.6秒 東経139度44分5.5秒 / 北緯35.670722度 東経139.734861度 / 35.670722; 139.734861
首領西口茂男
活動範囲1都1道1府16県[1]
構成員数
(推定)
約12,600人(2012年2月現在)[2]
*構成員 約5,900人
*準構成員 約6,700人

住吉会(すみよしかい)は、東京都港区赤坂に本拠を置く博徒指定暴力団。 勢力範囲は1都1道1府16県[1]、構成員は5,900人<[2]であり準構成員を含めると約12,800人。(2012年2月時点)

住吉会は住吉一家を中心とする、歴代の住吉一家総長を重んじる組織である。[3]

住吉会の中で住吉一家の傘下でない組織は幸平一家のみである。[4]

来歴

明治初期、初代“伊藤松五郎”が東京芝浦一帯で博徒「住吉一家」を結成したのがその前身としている。組名は“伊藤松五郎”が東京日本橋"住吉町"出身であることからつけられた[5]。 その後、横浜沖仲仕であった阿部重作が1918年(大正7年)頃に東京都内を本拠地として『住吉一家二代目』を結成。これを直接の起源とする。以後、『港会』、『住吉会』、『住吉連合』、『住吉連合会』と順次改称、1991年(平成3年)をもって再び『住吉会』へと名を変え、西口茂男を首領に据えた。[6]

港会

1958年(昭和33年)、住吉一家三代目阿部重作が、住吉一家を中心として、関東の博徒と的屋の連合を幸平一家の稲毛十蔵に依頼し、「港会」を結成した。そしてその会長に幸平一家十代目総長の青田富太郎を据えた[7]

住吉会(旧)

1962年(昭和37年)をもって阿倍重作が引退。磧上義光が港会と住吉一家四代目を継承した。その後、磧上義光は、港会を住吉会と改称した。

1963年(昭和38年)12月、住吉会は、松葉会錦政会日本国粋会、義人党、東声会、北星会と共に、児玉誉士夫の提唱する関東会に参加した。

1964年(昭和39年)3月、警察庁が広域10大暴力団を指定。対象となったのは山口組本多会柳川組、錦政会、松葉会、日本国粋会東声会、日本義人党、北星会、そして住吉会であった。

同年6月には、関東会定例総会において、住吉会・磧上義光会長が二代目理事長に就任。警察の第一次頂上作戦により磧上義光が逮捕されたことから、翌年の解散につながった。「広域暴力団」に指定された10団体のうち最初のトップの逮捕だった。

1965年(昭和40年)5月、住吉会は解散。

住吉連合会

1967年(昭和42年)、堀政夫が住吉一家五代目を継承すると共に、解散した住吉会を引寄せ「住吉連合」を結成し代表に就任。1972年(昭和47年)には、稲川会、國粹会、東亜会、交和会、義人党、松葉会、二率会、双愛会とともに、博徒系暴力団の親睦団体・関東二十日会を結成。

1982年(昭和57年)、堀政夫が組織を刷新し、組織名を「住吉連合会」に改め会長に就任した。この時期には九州の道仁会との抗争が突発的に発生し、首都圏に置く拠点の大半を同会に急襲されかけるという危機に見舞われるも、まさに間一髪というところで平和的な解決が実現するに至っている。

1988年(昭和63年)、堀政夫が住吉連合会日野一家四代目・川口喨史を住吉連合会会長に就任させ、自身は総裁に就いた。

住吉会

1991年(平成3年)2月、 西口茂男が住吉連合会会長に就任した後に住吉一家六代目を継承。同年のうちに西口が住吉連合会の各一家親分との親子血縁盃を行い、組織名を住吉会と改称した。

1998年(平成10年)6月、西口茂男は住吉一家六代目総長のまま、住吉会理事長で住吉一家小林会二代目会長の 福田晴瞭に住吉会会長を継承させた。

2002年(平成14年) 1月、西口茂男が住吉会総裁に就任。2005年(平成17年)4月、住吉会会長福田晴瞭は、住吉会総裁住吉一家六代目総長 西口茂男の指名により 住吉一家七代目を継承したことで、住吉会総裁 西口茂男親分の事実上の跡目となった。住吉会の親分は西口茂男総裁であり盃直しは行われなかった。

他団体関係

住吉会は六代目山口組との組織ぐるみの縁を持たない唯一の本州の団体であり[8]、六代目山口組とは数々の抗争事件を引き起こしてきたが、司忍組長が出所した2011年をもって山口組との正式な組織間交際関係を樹立。[9]

親戚団体

住吉一家歴代継承者

  • 初代 - 伊藤松五郎
  • 二代目 - 倉持直吉
  • 三代目 - 阿部重作
  • 四代目 - 磧上義光
  • 五代目 - 堀政夫
  • 六代目 - 西口茂男
  • 七代目 - 福田晴瞭

幹部

  • 副会長補佐:200名
  • 副理事長:300名
  • 理事  :500名
  • 幹事   : 700名
  • 専任評議委員 : 800名
  • 評議委員  :1000名
  • 代議委員 :1200名
  • 幹部   :5000名
  • 会員   :5000名(準構成員)

(2012年5月現在)

出典

  1. ^ a b c 平成21年の暴力団情勢 図表3-1 指定暴力団の指定の状況 - 警察庁 組織犯罪対策 2010年4月
  2. ^ a b 第二章一節一項 指定暴力団の指定の状況(平成23年6月1日現在)(PDFファイル) 平成23年 警察白書 警察庁 2012年2月2日閲覧
  3. ^ 住吉会総覧 竹書房(2007/7/2)
  4. ^ 住吉会総覧 竹書房(2007/7/2)
  5. ^ 暴力団ミニ講座
  6. ^ 『平成5年度警察白書 第1節 暴力団の実態』 1993年 警察庁
  7. ^ 出典は、大下英治『首領 昭和闇の支配者 三巻』大和書房<だいわ文庫>、2006年、ISBN 978-4-479-30027-4のP.202
  8. ^ 山口組関係者の言;日本全体で見れば道仁会ならびに工藤会が該当。『山口組幕府論:盃外交の意味』 2007年12月17日 猪野健治
  9. ^ 『山口組、住吉会が対立解消で末端組員が落ちて行く』 2011年5月23日 溝口敦