上海天長節爆弾事件

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

これはこのページの過去の版です。掬茶 (会話 | 投稿記録) による 2016年1月3日 (日) 00:20個人設定で未設定ならUTC)時点の版であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。

記念碑
魯迅公園にある事件現場の記念碑(2008年)
事件直前
事件直前の要人(左から白川、重光、野村)

上海天長節爆弾事件(しゃんはいてんちょうせつばくだんじけん)とは、第一次上海事変末期の1932年(昭和7年)4月29日上海の虹口公園(現在の魯迅公園)で発生した爆弾テロ事件。事件があった場所から虹口公園爆弾事件(ほんきゅーこうえんばくだんじけん)とも呼ばれる。

事件の背景

1932年、大日本帝国中華民国の両軍が上海国際共同租界周辺において軍事衝突する第一次上海事変が発生していた。この事変は日本関東軍が引き起こした満州事変とその後樹立された満州国に対する欧米列強の関心をそらすかのように発生したものであった。しかしその事が中国国内の反日感情を激化させることになり、著しく状況を悪化させていた。

欧米4ヶ国による停戦交渉中であった4月29日は天長節であり、日本の上海派遣軍と在上海日本人居留民は上海の虹口公園(現在の魯迅公園)において大観兵式天長節祝賀会を執り行うことになった。この行事は日本軍の上海における軍事行動の勝利を祝賀するものでもあった。しかし、日本の軍事的制圧下にある地域とはいえ、事変中に要人が集まる式典を執り行う事は、非常に危険な行為であり恰好の標的をさらすことに他ならなかった。そのため、攻撃を警戒して上海派遣軍司令官白川義則大将は会場への道中数度に亘り車のナンバープレートを交換する用心をしていた。しかし開催会場が上海中に明らかになっているうえに市内でも有数の大きさの公園であり、出入りする群衆も多いため完全にチェックするのは難しかった。結果、攻撃の危惧は案の定、現実になった。

事件の概略

太極旗の下で宣誓する尹奉吉
尹奉吉義士暗葬之跡』の碑文が刻まれた石碑石川県金沢市
三義士の一人として大韓民国で顕彰される白貞基の墓(右から二番目「義士尹奉吉基之墓」と漢字で銘が刻まれている。孝昌公園(韓国語))

この攻撃実行の恰好の機会に、朝鮮半島からの日本による支配を駆逐する事を目的とする大韓民国臨時政府の首班金九尹奉吉を攻撃の実行犯として差し向ける事にした。またこの攻撃計画には中華民国行政院代理院長(日本の内閣総理大臣代理に相当)であった陳銘樞などが、朝鮮人側の要人であった安昌浩に資金を提供し協力していた。これは当日の天長節の祝賀会場への入場を中国人は一切禁止されていたため、日本語が上手で日本人に見える実行犯を使うことにしたからである。

金九は、上海兵工廠の庫長と第19路軍情報局長を兼任していた金弘壹(中国名・王雄)に水筒型と弁当型の爆弾各1個の製造を依頼した[1][2]。これは日本の新聞が水筒と弁当だけを持参して式に参列するように告知したからであった[1]。金弘壹は中国人技師の向佽濤と協力して爆弾の製作に取り組んだ。

先の1月に大韓民国臨時政府傘下の抗日武装組織韓人愛国団の団員であった李奉昌が、東京で昭和天皇を暗殺しようとしたが、爆弾の威力が弱く、失敗に終わっていた(詳細は桜田門事件を参照)。その教訓から、十数回の実験を繰り返し強力な爆弾を作り上げた[1]

午前10時始まった式典は、午前11時40分ごろ天長節を祝賀するため、21発の礼砲が発射され、海軍軍楽隊の演奏で君が代が斉唱された。途中で雨が降ったため、群衆がざわつきはじめた[3]。同時に式台の右後ろのラウンドスピーカーの音がしなくなり、私服で警戒していた5~6人の軍人が修理しようと動いた[3]。この瞬間に尹は群衆を抜け出し、水筒型の爆弾を式台に投げつけた[3]。尹の目的は「植田謙吉、白川義則の両司令官の殺害」であったので、それ以外の人間を巻き込まないよう威力の大きい弁当型は使われなかった[4]

この爆発で、河端貞次が即死、第9師団長植田謙吉中将・第3艦隊司令長官野村吉三郎海軍中将・在上海公使重光葵・在上海総領事村井倉松・上海日本人居留民団書記長友野盛が重傷を負っている。重光公使は右脚を失い、野村中将は隻眼となった。白川大将は5月26日に死亡した。

犯人の尹は、その場で「大韓独立万歳!」と叫んだ後に自殺を図ろうとした所を検挙され、軍法会議を経て12月19日午前7時に金沢刑務所銃殺刑となった。なお尹は戦後韓国では日本に打撃を与えた独立運動の義士として顕彰されている。日本国内でも在日本大韓民国民団によって顕彰されており、石川県金沢市では尹奉吉を義士として顕彰している尹奉吉義士殉国記念碑尹奉吉義士暗葬之跡碑などで式典が行われている。[5]在日本大韓民国民団石川県本部内に尹奉吉義士記念館が設立される予定となっている。[6] 事件の首謀者であった金九は事件の犯行声明をロイター通信に伝えたうえで、上海を脱出した。日本軍上海フランス租界にいた安昌浩ら大韓民国臨時政府のメンバー17名を逮捕した。

梅亭

尹奉吉の資料館・梅亭(2008年)

事件が発生した地点は現在の魯迅公園北側にある池のほとりである。中韓国交正常化以後に事件現場を示す石碑と尹を記念する梅亭が建立された。梅亭は尹の号「梅軒」に因んで命名されたものであり、実際に梅が植樹されている。

梅亭にある建物では尹の生涯や事件の概要を展示した資料館となっており、尹の処刑の際に使用された木杭などの資料が展示されている。そのため、現在では韓国人観光客の主要な上海観光スポットとなっている。なお、梅亭のあるエリアは入場料15日本円で約225円)が徴収される。

類似する事件

虹口公園では、1ヶ月前にB.T.P(黒色恐怖団)の朝鮮人白貞基(韓人愛国団とは無関係)一行が在華日本公使・有吉明を襲撃しようとして失敗し、検挙されていた。このように日本人要人が狙われる攻撃が実際に発生していたが、それにもかかわらず同じ場所で式典は開催された。

脚注・出典

  1. ^ a b c 佐々木春隆『朝鮮戦争前史としての韓国独立運動の研究』国書刊行会、1985年、p. 290.頁。 
  2. ^ 山口隆『4月29日の尹奉吉:上海抗日戦争と韓国独立運動』社会評論社、1998年、p. 86.頁。 
  3. ^ a b c 山口隆『4月29日の尹奉吉:上海抗日戦争と韓国独立運動』社会評論社、1998年、p. 93.頁。 
  4. ^ 山口隆『4月29日の尹奉吉:上海抗日戦争と韓国独立運動』社会評論社、1998年、p. 107.頁。 
  5. ^ 梅軒尹奉吉義士 殉国80周年記念追悼式 在日本大韓民国民団 2012/12/20
  6. ^ 梅軒尹奉吉義士 殉国80周年記念追悼式 在日本大韓民国民団 2012/12/20

参考文献

  • 上海ニ於ケル天長節式中ノ爆弾兇変事件(上海事件附連盟調査委員会 松本記録 第二巻) アジア歴史資料センター レファレンスコード:B02030474600
  • 上海爆弾事件犯人に関し上海に於ける出先官憲は協議の上本六日午后三時左の如く発表せり(国立公文書館 各種情報資料・満洲及支那事変ニ関スル新聞発表) アジア歴史資料センター レファレンスコード:A03023776600
  • 外事警察報第119号(内務省警保局 昭和7年6月) アジア歴史資料センター レファレンスコード:A04010420400
外国事情 〔中華民国〕 上海に於ける爆弾投擲事件の概況 p30~p34
  • 上海爆弾事件に関する北京天津タイムス社説の件(昭和7・7・11~7・7・13 満受大日記(普) 其16 2/2) アジア歴史資料センター レファレンスコード:C04011339200
  • 虹口公園爆弾事件犯人尹奉吉に対する判決書写送付の件(海軍省公文備考 昭和7年 D 外事 巻6) アジア歴史資料センター レファレンスコード:C05022017600
  • 重光葵「8.爆弾――「隻脚記」より」『外交回想録』日本図書センター、1997年。ISBN 482054246X