ユリウス・フチーク (ジャーナリスト)

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ユリウス・フチーク
Julius Fučík
ファイル:Julius Fucik 01.jpg
生誕 (1903-02-23) 1903年2月23日
オーストリア=ハンガリー帝国の旗 オーストリア=ハンガリー帝国プラハ
死没 (1943-09-08) 1943年9月8日(40歳没)
ナチス・ドイツの旗 ドイツ国ベルリン
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ユリウス・フチークチェコ語:Julius Fučík 、1903年2月23日 - 1943年9月8日)は、ナチス・ドイツ占領下のチェコスロバキアジャーナリスト共産主義者ナチスによって収監、拷問され、処刑された。『絞首台からのレポート』が有名。

出生

1903年、プラハで労働者階級の家庭に生まれる。父は、鉄鋼労働者。1913年、フチーク家はプラハからピルゼンに引っ越す。そこでは、州立職業ハイスクールに通う。12才にして「Slovan」という名の新聞を発行する。政治と文学への関心は顕著。十代の時、地元のアマチュア劇団に所属。そのとき身につけた変装のテクニックは、後の地下活動に役立つ。彼が老人に扮した写真が残っている。[1]


ジャーナリズムと政治

1920年、彼はプラハで学び、チェコスロバキアの社会民主労働者党に参加。その中でも左翼寄りになる。1921年5月、この一翼は、チェコスロバキア共産党(=CPC)を設立。この頃、プリゼン地方紙のために最初に文化的な投稿を書いた。

フチークは、文学的な内容を持つ新聞の編集者の職に就く。CPC内で、彼は文化研究についての責任者となる。文芸評論と政治的文書との両立。この頃、フチークはチェコスロバキアの秘密警察に度々逮捕される。しかし、この時点のそれはチェコの国立警察であり、共産主義活動を取り締まるのが目的であって、検挙や収監は、過酷ではなかった。1934年には、8ヵ月の禁固刑を免れている。

1930年、4ヵ月間、ソビエト連邦を訪問。そして、非常に楽観的な報告を書いた。1934年7月、ヒトラーが台頭した直後にバイエルンを訪問。ミュンヘンにて、チェコの今後の党活動について解説。1934年、再びソビエトを訪問。多くのレポートを書き、ソビエトの躍動を印象づける。チェコ共産党内でスターリン批判をするワイルとジャン・スラヴィクを相手に激しい議論をする。フチークはスターリンを讃美し、スターリン批判はチェコ共産党にとって致命的だと批判した。

1938、フチーク、アウグスチナ・クディニロヴァと結婚。後に、グスチナ・フチーコヴァとして知られる女性。[2]

ナチス占領下

1938年9月、プラハ政府、CPCに解散命令。以降、CPCは地下活動を行う。1939年3月、ナチスドイツ、チェコスロバキアを占領。フチークはいったん両親の住むChotimに帰り、一般的な新聞で歴史や文学についての記事を書く。しかし、CPCの地下活動を再開。1940年、ゲシュタポ、Chotimにてフチークを捜索。フチーク、プラハへ帰還。

1941年、フチーク、CPCの中央委員会に所属。彼は紙を提供して、定期的に共産党機関紙を発行しようと企画。1942年4月24日、偶然の捜査によって、フチークと6人の仲間はゲシュタポによって逮捕される。その時、フチークは銃を持っていた。逮捕されるよりは自殺を選べと、渡された銃である。しかし、そこで自殺すれば、他の仲間が活動家である嫌疑が高まるので、銃は使わなかった。[3]


絞首台からのレポート

フチークはパンクラーツ刑務所英語版で、獄中記を綴った。秘密警察の活動は公にはされず、被疑者は多く殺害されるので、尋問や拷問を詳細に述べたそれは貴重であり、心を打つ内容になっている。それは巻きタバコの紙の部文に書かれて、コリンスキーとホラという名の同情的なチェコ人看守によって持ち出された。フチークは激しい拷問を受けたが、ソビエト共産軍による解放を信じて、楽観的な気持ちで過ごした。

夜の11時、尋問。ホラーク教授の身分証明書を出すが、偽造と見破られる。「誰から貰った?」「警視庁から」 初めてステッキで殴られる。2回、3回、数えてみようか? いや、こんな統計を報告するところはない。「お前の名は? お前の住所は? 言え! 誰と連絡があった? 言え! 言わないと、殴り殺すぞ!」 ひとりの健康な人間がどれだけの打撃に耐える事ができるか?「喋べれ! 喋べれ!」

私の舌は血の出ている歯茎をまさぐる。そして、どれだけの歯が殴られて抜け落ちたかを数えようとする。数えきれない。12、15、17? いや、それは私を「取り調べて」いる警部たちの数だ。彼らのうちには、もうありありと疲れを見せている者もある。しかし、死はまだ来ない。

獄中では、口を割らせる為に、グスチナ夫人とも面会させられた。

戒厳令の時、去年の6月中旬の事であった。彼女は、私たちが捕まってから6週間目に、私が死んだといういろいろの噂に対して、監房の中でひとり考えあぐんだあの恐ろしい日々の後に、始めて私の姿を見た。彼らは、私を軟化させる為に彼女を呼んだのだ。「彼を説得したまえ」 と部長は、私たちを対面させながら、彼女に言った。「手数をかけないよう説得したまえ。もし彼が自分の事を考えないなら、せめて君の事を考えるようにさせたまえ。1時間上げるから考えてみたまえ。それでもまだ彼が意地を張るなら、今夜銃殺する。二人ともだ」

彼女は私を眼で愛撫し、簡単に答えた。「警部さん、そんな事は私には何の脅しにもなりません。私の最後のお願いです。もしあの人を処刑するなら、私も一緒に処刑して下さい」 ごらん、これが私のグスチナだ! 限りない愛と、芯の強さ。

彼らは私たちの命を奪う事ができる。ねえ、グスチナよ、だが私たちの愛や誇りを奪う事はできない。人々よ、これらすべての苦悩が過ぎ去った後で、私たちがもし出会うような事があれば、どんな生活をするか、想像できますか? 自由と創造によって美しい、解放された生活の中で会えたならば? 私たちが望み、その為にこのように懸命に働き、そして、その為に今死んでゆく大業がなし遂げられた時に? たとえ死んでも、私たちは諸君の大きな幸福のかけらの中に生き続けるだろう。なぜなら、私たちはその中に私たちの命を投資したのだから。自分の命と別れる事は辛いが、それは私たちに喜びを与える。

獄中のメーデーは次のように描かれる。

ここのパレードは、とても小さな形をとって行われる。まず、隣の房から朝の挨拶に、ベートーヴェンから取った拍子をふたつ叩いてくる。それが今日はいつになく調子が荘重である。壁はいつもより高い調子で話す。

朝食を取る時は、もうすっかりパレード気分である。雑役たちは廊下で、コーヒー、パン、水を持って歩く。同志スコジェパは、丸いパンをいつもの二つでなしに三つ配って歩くが、これは彼のメーデーの挨拶なのである。用心深い人間が、動作であらわす挨拶なのである。握手代わりに我々の指はパンの下で固く触れる。話す事はできない。彼らは我々の眼の表情さえ逃すまいと見張っているのだから。しかし、唖だって指ではっきりと話す事ができるではないか!

私たちの房の窓の下の中庭に、女囚たちが朝の30分の運動に走り出る。私はテーブルの上にのぼって、窓ごしに下を見おろす。彼女たちはたぶん私に気づくだろう。気づいた。挨拶に握り拳を上にあげる。私も挨拶を返す。下の中庭は活気づいている。ほかの日に比べて本当に陽気である。女看守には見えない。あるいは見たくないのだろう。これだって今年のメーデーのパレードの一部なのである。

それから、私たちの運動の時間になる。私が運動の先頭に立つ。今日は5月1日である。諸君、看守が驚こうが、驚くまいが、何か新しい事を始めようではないか。最初の運動は大きな槌を振る事である。1、2、1、2。第二の運動は麦刈りである。少しの空想力さえあれば、同志たちは理解するだろう。槌と鎌。私はあたりを見回す。みなにこにこしており、元気に私の型どおりやっている。

その姿は殉教者のようだった。しかし、フチークはあくまで、涙とともに語られる事を望まない。

死よ、お前はやって来るのに長い時間がかかった。かつて、私はお前と知り合いになるまで長年かかるだろうとたかを括っていた。私はまだまだ自由な人間としての生涯を生き、多く働き、多く愛し、歌い、そして世界中を歩き回れるだろうと思っていた。私はやっと一人前になったところで、まだまだ多くの力をもっていた。今では私には力がない。最後の時が近付きつつある。

私は生活を愛し、その美しさの為に戦った。人々よ、私はあなたたちを愛した。そして、あなたたちが私の愛に報いてくれたとき私は幸福だった。私はあなたたちが私を理解しなかったとき苦しんだ。私が傷つけた人は誰にせよ、私を許してくれたまえ。私が喜ばせた人は、私を忘れてくれたまえ。悲しみが、私の名に属する事が決してないように。これが、父よ、母よ、妹たちよ、そして君グスチナよ、君たち同志たちよ、私の愛したすべての人々に対する私の遺言である。もし涙が悲しみのごみを洗い去ってくれると思うなら、しばらく泣くがいい。しかし、私が喜びの為に生き、喜びの為に死んでいく事を忘れないで欲しい。私の墓の上に悲しみの天使を侍らせるような事があってはならない。[4]


裁判と死

1943年5月、フチーク、ドイツに護送される。2ヵ月以上はバウツェンで、その後はベルリンで拘留される。1943年8月25日、フチーク、非合法活動によって訴えられる。そして、ナチで有名なローラント・フライスラーによって、死刑を宣告される。1943年9月8日、Plotzensee刑務所にて、斬首される。[5]


戦後

グスチナ・フチーコヴァは、強制収容所にいたが、生還できた。戦後、グスチナは、フチークの遺稿を取り戻して、研究した。1947年、グスチナはCPCの援助により、「絞首台からのレポート」を出版した。それは、成功した。1948年、チェコスロバキアがスターリンの支配化に入ると、幸か不幸か、それは政治的意図の下に顕彰された。それは、世界90ヶ国の言語に翻訳された。[6]


シンボルとしてのフチーク

共産党はフチークを発見した。それは宣伝として利用され、党で最もよく見えるシンボルとして活用された。その本は、学校の必読書となった。チェコスロバキアで育った子供は、10才までに、祖国の英雄としてフチークの偉業を教えられた。その肖像は、あらゆる政治的な会議で、大きく掲示された。未亡人グスチナは、共産党女性部の議長として、高い地位を与えられ、何十年もその地位に停まった。

多くの場所が、フチークの名を取って名付けられた。プラハの大きな遊園地、市民劇場も、ユリウス・フチークの名を冠せられた。ほか、軍隊、工場、通りにも、フチークの名が付けられた。[7]


民主化後の再評価

1989年、チェコ共産党は政権の座から落ちた。そして、フチークも調査の対象となった。『絞首台からのレポート』からは、2%の部文が削除されていた、また、テキストがグスチナの手によって清書されていた事が明らかになった。フチークがゲシュタポにどれだけの情報を与えたか、また、彼が組織を裏切ったかどうかについて、詮索がなされた。1995年、完全版が出版された。そこでは、彼が拷問に屈したと見せかけた時の方法が記されていた。フチークはゲシュタポにガセネタを掴ませた。その事により、チェコの抵抗運動の中で無数の命を救った。しかし、それは基本的に共産党員だった。この事に、現代のチェコ国民は途惑いを見せている。一般市民が嫌疑を受ける分は、捨てて置いたのではないか。[8]しかし、フチークが誰よりも大きな苦痛を耐え忍んだ事については、言を待たない。


日本における評価

共産主義は、多くの国で侵略的、欺瞞的、強制的な形を取るが、[9]それがナチス占領下の東欧では、奇跡的に、愛国的、民族開放的な情熱とひとつになった。その信念と情熱は本物である。また、拷問や監禁に耐える姿は、皮肉にも、ソビエト体制、スターリン体制を批判するものとなっている。チェコの政治体制がどう変わろうとも、フチークの業績は不滅である。なによりも彼は、幸福の為に生きた。


脚注

  1. ^ from 07:04, 2 July 2010 UTC
  2. ^ from 07:04, 2 July 2010 UTC
  3. ^ from 07:04, 2 July 2010 UTC
  4. ^ ユリウス・フゥチーク著、来栖継、筑摩書房、『絞首台からのレポート』1968。
  5. ^ from 07:04, 2 July 2010 UTC
  6. ^ from 07:04, 2 July 2010 UTC
  7. ^ from 07:04, 2 July 2010 UTC
  8. ^ from 07:04, 2 July 2010 UTC
  9. ^ ハンガリー動乱、日本の反戦運動など