モンゴルの高麗侵攻

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モンゴルの高麗侵攻(-こうらいしんこう)とは、朝鮮半島を統治していた高麗王朝に対してモンゴル帝国1231年から1273年にわたり、繰り返し行った戦争を指す。この間、主要な戦いは6度行われ[1]、高麗の国土は荒廃した。戦争の結果、その後約80年間にわたり高麗はモンゴル/元朝の支配下に置かれることとなる。

第1次・第2次戦役

高麗とモンゴルの関係の始まりは1218年である。当時、金朝に属していた契丹族の一部(黒契丹と呼ばれる)が満洲から高麗に乱入し、江東城(カンドンソン)に籠城したが、モンゴルと高麗が共同でこれを滅ぼしている[2]。その後の1220年から1223年にかけて高麗王国は連年モンゴルへ朝貢していたが(以降とは異なり奴隷を要求されず)[3]1225年にモンゴル使節が殺害される事件が起きためモンゴルの侵攻を招いた。ただしこの時、モンゴルのチンギス・カン西夏への遠征中であり、高麗侵攻はチンギスの死後、三男のオゴデイ大カーンに即位した後に行われた。

オゴデイ・カアン

1231年、オゴデイは高麗に対して、先の使者の殺害を詰問し降伏・臣従を促す国書を送る[4][5]。これを機にモンゴルによる高麗侵攻が始まり、将軍サルタク・コルチ(撒里打火里赤)に率いられたモンゴル軍は、鴨緑江を越え、直ちに国境の義州を陥落させた。このとき高麗の将軍洪福源は1,500戸を引き連れてモンゴルに降伏。12世紀後半以降「武臣政権」と呼ばれる軍人による執政体制が行われ、中でも崔氏が権力を握っていたが、崔瑀は歩兵を率いて安州および亀城で迎撃した。モンゴル軍は安州を落とした後、亀城を包囲したが落とせず、サルタクはこれを無視して一挙に首都開城に向かい攻略した。首都の陥落を受け、モンゴル軍に抵抗できないことを悟り、高麗朝廷は講和を求めた。これに対しモンゴルは、1万枚の毛皮、2万頭の馬、100万人分の軍服および大量の奴隷など大量の貢物を要求した。サルタクは1232年春、主力軍を北に撤退させたが、高麗支配のために、開城その他の都市に72人のダルガチ(統治官)を配置した[6]

ファイル:高丽油画.jpg
処仁城の戦い(韓国戦争記念館蔵)

しかし同年、崔瑀はモンゴルが残したダルガチ72人を全員殺害するという挙に出る。さらに国王と開城の民を引き連れて、京畿道沖にある江華島に朝廷を移し、モンゴルの脅威に備えて防備を固めた。モンゴル軍は陸戦には長けているが、海戦には不向きと判断したためである。崔瑀は国内の船を総動員して兵や軍事物資を江華島へ運搬した。また地方の平民にも都市や山岳要塞、沖合の島などへ避難するよう勧告が出された。江華島には強固な砦が築かれ、対岸の半島本土側にも小規模な城壁が施され、文殊山(ムンスサン、慶尚北道)には二重壁が建設された。この結果、農村の休耕や国土の荒廃を招くことになる。

モンゴル側はこれらの朝廷移転やダルガチの殺害という明確な敵対行為に対して、二度目の遠征を行った。モンゴル軍は、第一次侵攻で降伏した洪福源に兵を率いさせ、半島北部を制圧。続いて半島南部へ到達したが、陸地からわずかの距離しかない江華島を制圧することができず、光州で反撃された。この間、サルタクは龍仁附近で行われた処仁城(チョインソン)の戦いで流れ矢に当たり戦死し、モンゴルは撤退を余儀なくされた。

3度目の侵攻と和平

海印寺・大蔵経経板閣内の版木

この状況を受け、1234年に金を滅亡させたオゴデイは、三度目の高麗制圧を企図し、1235年から慶尚道全羅道全域で掠奪が開始された。モンゴル軍は江華島政権および半島本土の山城の攻略を避け、高麗軍の補給を絶つため農地を焼き払う挙に出た。江華島政権は防御をより固めていたが、度重なるモンゴル軍の侵略に対して、抗戦不能に陥りつつあった。

いっぽう江華島では1236年、高宗王が第2次侵攻の際、戦災で焼失した符仁寺(プインサ)大蔵経の版木の復元を指示。15年の歳月をかけて1251年に経典1,512部、6,805巻を集めた81,258枚の版木が製作された(高麗八萬大蔵経[7]。その後海印寺(ヘインサ)に移され、現在韓国の国宝となっている。

1238年、高麗は再び和議を望むようになり、高麗王室から人質を出すことを条件にモンゴル軍が撤退することとなった。しかし無関係の人間を王室の者と偽って人質に出したため、モンゴル側は激怒し、高麗王室の江華島からの退去、海上のすべての艦艇の一掃、反モンゴル的貴族の差し出しなどを強硬に求めた。しかし、高麗側は王族佺[8]と10人の貴族子弟を人質に出した以外は要求を拒絶した。

第4次・5次侵攻

1251年8月末のクリルタイでのモンケ・カアン(1438年書写の『世界征服者史』の写本)

1247年、モンゴルは4度目の高麗侵攻を実施、江華島から松都(開城)への還都、および高麗王室からの人質を再び要求した。アムカン率いるモンゴル軍は塩州に駐屯。高宗王が江華島から松都への帰還を拒むと、全土への掠奪を再開するが、1248年グユク・カンが崩御したことで、モンゴル軍は一時撤退した。しかし、モンゴル軍の襲撃は1250年まで続く。

1251年、モンゴル帝国第4代皇帝としてモンケが即位すると、10月、モンケは自らの即位を通告する使者として将困、洪高伊ら40人を送り、併せて、詔を発して国王高宗に「出陸」(江華島からの退去と半島本土への帰還)および「親朝」(自らの宮廷への出頭)を求めた。これを受けた高宗の宮廷は朝議で紛糾し、太子を代わりに遣わして親朝するか、あるいは高宗は老病のため親朝できないことを伝え、これを詰問された場合は太子を代わりに遣わして親朝させれば良いのではないか、という意見が出た。翌1252年正月にモンゴル側に李峴を使者として送り出したが、7月にはモンゴル側から使者として多可・阿土ら37人が来て国王の出陸について審問してきた。一旦は使者をモンゴル側に送って近く出陸すると答えた。モンゴル側はこれを言質として再度使者をよこすと国王高宗の出陸を要求した。使者たちはモンケの命令で高麗からの使者李峴がモンゴル宮廷に留め置かれたことを告げ、「国王が陸でお前たち使者を迎えるならば、たとえ人々がまだ出て来なくともそれで良しとする。もしそうでなければ直ちに帰還せよ。お前たちが来るのを待って(高麗に)兵を発して討伐させる」というモンケから使者たちに課された指令を伝えた[9]。モンゴル側はいまだに高麗宮廷が江華島に立て籠っていることをモンゴル帝国に対する最大の反抗とみなしており、旧都・開京へもどることを求めた。しかし、高宗が崔沆に対策を問うたところ、「国王は軽々しく江華島より出るべきではありません」と答えた。廷臣たちはモンゴル側の出陸の要求に従うべきだと考えていたが、崔沆がこれを拒絶すべきとの意向を示したため、高宗ともどもこれに従ったという。高宗は代わりに新安公 佺に使者たちを迎えさせるよう遣わし国王の出陸は行われなかった。このため、使者・多可たちは違約とみなし怒って帰還してしまった[10]。さらにその年の12月、モンケの命を受けた諸王イェグ(諸王 也古、ジョチ・カサルの長男)が軍をともない併せて質子(トルガク)としてモンゴル宮廷に出仕していた永寧公綧を使者として寄越して来た。モンゴル軍はそのあいだ東真国のあった地域に進駐した。翌1253年5月にはイェグ(也窟大王)は先年高麗に使者として来たった阿豆ら16人を改めて使者として送って来たが、進展は無かった。ついに、その国王が国外へ旅するなど先例がないとして拒絶[11]。モンケは親族のイェグ(諸王 也古、ジョチ・カサルの長男)に、高麗の軍を統治するよう命じ、モンケ宮廷の高麗人の勧めにより1253年7月に侵攻を開始した。イェグはアムカン(阿母侃)を伴い、高麗に降伏を要求。高麗はこれを拒絶するが、モンゴルへの抵抗は諦め、山城や島嶼部に農民を集めはじめた。またジャラルダイ(札剌児帯)はモンゴルに降伏した高麗の将とともに国土を蹂躙。イェグの使者が高宗の宮廷に遣わされると、高宗はついに半島本土への帰還と、第二王子の安慶公淐を人質に出すことを承諾。高麗の降伏を受け、モンゴルは1254年1月に停戦に応じた[12]

6度目の侵攻と降伏

しかしモンゴル帝国は後に高麗朝廷上層部の江華島残留を知り処罰した。その後1253年から1258年にかけて、罷免されたイェグに代わって征東元帥に任じられたジャラルダイ[13]配下のモンゴル軍は、貴人と官吏のみが要衝へ立て籠ったため多くが放置されていた高麗領へ、6年に渡り断続的な破壊・略奪を行う第6次侵攻が開始された。この第6次侵攻は小休止を挟んで4度の波があったが、渡る第一波となった1254年には206,800余人の高麗人が捕虜となり、殺された者は数えきれず、「蒙古軍が経る所の州郡みな灰燼となる」「骸骨野を蔽う」といった惨状を呈したという[14]

この間、高麗朝廷内部はモンゴルへの対応について二派に分かれていた。モンゴルとの戦争に反対し降伏を進めようとする文人グループ(文班)と、モンゴルとの戦争を継続しようとする崔氏が率いる武人グループ(武班)である。しかし文士により崔竩が暗殺され、崔氏政権が倒されると、モンゴルとの講和が進展する。崔氏滅亡を告げるモンゴル宛て国書で高宗は「今まで我が国が貴国に事大の誠を尽くせなかったのは権臣が政治を奪い貴国へ属するのを嫌がったためであり、崔竩が死んだ今、ただちに都を戻し、貴国の命を聞きます」と全面的な従属を宣言した[15]。以後、旧高麗領の多くはモンゴル領征東行省(高麗行省)となり、モンゴルの役人によって軍政両面に渡り統括された。モンゴルは和州(現金野郡)に「双城総管府」を設置し、その周辺を直轄領に編入。1259年4月に王子倎をモンゴルに入朝させることを決した[16]

クビライと元宗の王政復古

クビライ・カアン

高宗の世子・は大カーンのモンケに拝謁するため、モンゴルへ向かっていたが、1259年南宋へ遠征中のモンケが急逝。上都開平府へ帰還中のクビライ(モンケの弟。後の元世祖)に拝謁した。さらに翌1260年春、今度は高宗が没したため倎は帰国を哀願、クビライは帰国を許可した(即位して元宗と称する)。4月12日、モンゴル皇帝に即位したクビライは倎以下上下朝臣の帰服を嘉した。倎が、モンゴル軍による掠奪の免除と捕虜・逃民を帰参させる許しを求めると、5月13日に詔諭を下しこれを許可した。6月、倎が子の僖を入朝させたことにより、国王の冊封を受け王印と虎符を賜った[17]

以後、元宗は頻繁にモンゴル・元朝へ入貢したが、反モンゴル派はこれを不満として親モンゴル派との対立を深める。1268年に権臣の金俊を誅殺。翌年には林衍らが親モンゴル派の崔坦らとの確執により、元宗を廃して弟の安慶公を擁立する乱を起こした。クビライは、入朝していた世子愖の、兵3,000と5ヶ月分の糧秣を頂き私が同行すれば騒乱は収められる、との献策を受けて愖に3,000・将軍モンゲドゥに2,000の兵を授け高麗へ派遣、モンゴル軍は瞬く間に乱を鎮圧した[18]。さらに急死した林衍の跡を継ぎ高麗令公(高麗武人のトップ)となった林惟茂を文班の洪文系らが殺害、高麗の武臣政権は終わりを告げ王政復古が成った[19]

高麗の分裂と三別抄の乱

1269年10月、林衍の乱の原因となった親モンゴルで都統領の崔坦らが、西京(平壌)を中心とする西北面50城を領して、高麗から分離し元に帰属した。クビライは西京を「東寧府」へ改称し東寧路を置いた。またその北の遼寧平原の瀋州(瀋陽)一帯は先に降伏していた洪福源らの一族が統治していた。一方、林衍一派の残党である裴仲孫は残存勢力を集め、高麗王室の傍流にあたる王温を擁立して江華島を脱出、半島西南部の珍島を根拠として「高麗国」を自称した[20]

これら高麗人が別々に構成した4つの勢力(北から順に洪福源・崔坦・元宗・珍島)をまとめて統治するため、クビライは行中書省を置き、クルムシムカリ国王家)を長官に据えた。クルムシの勧告を受けて元宗は江華島を退去し[21]、開城に還都し、ここに約40年にわたった江華島政権は終了した。しかし江華島からの退去に従わない武人は、高麗の首都警備軍である「三別抄(サムピョルチョ)」を主力として反乱を起こし、珍島臨時政府に合流してモンゴルに抵抗した。クビライはヒンドゥ(忻都)に5,000の騎兵を授けて金州に駐屯させ、元宗に三別抄討伐のための軍船を造らせる一方、洪福源の子・洪茶丘(後に二度の元寇に従軍)にも兵を率いて屯田させた。

1271年(この年からクビライは国号を「大元」と改める)アカイ率いる第一次珍島討伐は失敗に終わる。同年3月三別抄は日本の朝廷に対して援軍と兵糧を求めたが、日本側では事態がよく理解できておらず、この要求は無駄に終わった[22]。同5月ヒンドゥ率いる元・高麗連合軍が珍島を攻略し、モンゴルとして初めて海戦に勝利して、王温を捕らえ斬刑に処した。なおも三別抄の指導者金通精らは、属国の耽羅国(済州島)へ逃れて耽羅国王を追い出し籠城したが、ヒンドゥ軍12,000の兵は1273年軍船108艘に分乗して耽羅を攻略。三別抄勢力を壊滅させた元朝は耽羅総管府を設置、高麗征服事業は完了した。

王政の途絶

征東行省が臨時機関から常設組織へと変質した1290年前後からは、政治・軍事に加えて行政も征東行省によって処理されるようになり、高官以下行政官の人事権も征東行省が握り、賦税も元の朝廷へ収めるよう変更されるなど、次第に高麗領は直接統治下に組み込まれていった。高麗王が官制をモンゴル式から高麗風に改めようとした事もあるが、元の役人から反感を買って廃され、達成されることは無かった[23]

その後の高麗王室

その後、高麗王室と元皇室や元の貴人は互いに姻戚を結び、4代の高麗王は元朝宮廷において最高ランクの金印獣紐を授けられる諸王・駙馬のひとつ「駙馬高麗王」の地位を得る[24]。元宗の子・忠烈王(在位1274年 - 1298年、復位1298年 - 1308年)にクビライの皇女クトゥルク=ケルミシュ公主(齊國大長公主 忽都魯堅迷失)が下嫁した[25]

第一・二次の征東行省において高麗国王は次官(長官は右丞相の阿剌罕、阿塔海ら)となった、第三次では無官となるが忠烈王の復位した際に再び左丞相に任じられた。恭愍王(在位1351年 - 1374年)に至るまで約80年間、歴代国王は世子の時期にモンゴル宮廷に人質(トルカク)として赴き、ケシクなどのモンゴル宮廷での歴代モンゴル皇帝近辺での職務に従事し、これによってモンゴル名を与えられ、またモンゴル貴人の娘を娶り、前王が逝去した後に帰国し、高麗王に就くのが慣例となる。

クビライ時代は「帰順が遅かった叛逆諸候のひとつ」としてクビライからカルルク王家と比べられて詰られる場面もあったが、クビライ晩年のナヤン・カダアンの乱の鎮圧にも従事し、その鎮圧にあたった皇孫テムルがクビライを継いでモンゴル皇帝に即位すると、高麗王家の地位は上がった。しかし、クビライ王家との姻戚を深めることは同時にテムル没後のクビライ王家内における皇位継承紛争の影響を直接受けることに繋がり、モンゴル宮廷の高麗王族・官僚と高麗王室で確執が生じ、大都宮廷での内紛に伴うモンゴル皇帝の交替に伴い高麗王の改廃も生じる事態となった。また、高麗から宮廷などへ高麗王族と貴族が出仕する例が増え、高麗国内よりも高位の職を得る人物も出現した。元朝最後の皇帝(大カーン)となったトゴン・テムルの皇后となりアユルシリダラ北元2代カーン)を生んだ完者忽都皇后(奇皇后)は、高麗からモンゴル宮廷に宮仕えのために出された宮女であった。

特に忠烈王は父の元宗の路線を継承し、親モンゴル政策に傾倒した。忠烈王は元宗廃位事件によって父元宗救出のためモンゴル軍の出動を要請したおりに、高麗は以後モンゴル側への出征には率先して労力を惜しまない、という言質を与えたため、クビライの日本侵攻の意志が固まる頃には、その応対に「率先して当たる」態度を幾度も示さねばならなかった。出征に供出する兵員や人員、装備は高麗の国情にとっては重い負担だったようで、クビライの要求を受け入れつつ負担の軽減をその都度嘆願し、場合によっては自弁し切れなかった武器などを元軍から支給してもらうなどしていた。日本侵攻の為の第二、三次征東行省が置かれたが、高麗国王がその次官である左丞相[26]となった。文永・弘安の役に関わる一連の出来事は高麗王にとって、一面では高麗王家の地位安定に向けた絶え間ない危機と模索の時期であったとも言える[27]。日本への最初の侵攻となった文永の役(1274年)は、三別抄鎮圧の翌年、遠征軍出発に先立つ高麗世子愖と皇女クトゥルク=ケルミシュと婚姻、直後に元宗が死没しており、その喪が明けると同時に世子愖は忠烈王として即位した年でもあるという、高麗にとっても目紛しい年であった。征東行省を運営したダルガチ以下のモンゴル人の役人は、高麗では貴族として扱われた。

耽羅島(済州島)は元々高麗に属さず、また牧草に富み馬群の放牧に最適な地でもあり、対日本・南宋への絶好の軍事的位置でもあることから直轄地とされた(現在でも馬の毛色の名前にモンゴル語の影響が残っている)。1350年代、元朝の衰えが顕著となると、恭愍王は親元勢力を排除し、元の外戚として権勢を振るっていた奇氏を討伐。崔瑩李成桂らの武人を登用して元から領土を奪い返し、ようやくモンゴル支配から脱する。しかし、この過程で力を得た李成桂によって高麗王朝はやがて滅亡を迎えることとなった。

脚注

  1. ^ 回数の数え方は研究者によって異なり、7度や9度と言われることもある。
  2. ^ 杉山1996、107頁。村井1999、100頁。
  3. ^ 『元史高麗伝』(太祖)十四年九月,皇太弟、国王及元帥合臣、副元帥札剌等各以書遣宣差大使慶都忽思等十人趣其入貢,寻以方物進。十五年九月(中略)以皇太弟、国王書趣之,仍進方物。十八年八月,宣差山術䴙等十二人復以皇太弟、国王書趣其貢献。
  4. ^ 『元史』巻2・太宗本紀「(太宗三年秋八月)是月、以高麗殺使者、命撤禮塔率師討之、取四十餘城。」
  5. ^ 『元史』巻208・高麗伝「(太祖十九年)十二月、又使焉、盜殺之于途、自是連七歳絶信使矣。 太宗三年八月、命撒禮塔征其國、國人洪福源迎降于軍、得福源所率編民千五百戸、旁近州郡亦有來師者。」
  6. ^ 『元史』高麗伝「太宗三年八月、命撒禮塔征其國、國人洪福源迎降于軍、得福源所率編民千五百戶、旁近州郡亦有來師者。撒禮塔即與福源攻未附州郡、又使阿兒禿福源抵王京、招其主王[日+育+攵][日+育+攵]遣其弟懷安公王侹請和、許之。置京、府、縣達魯花赤七十二人監之、遂班師。」
  7. ^ 世界全史、312頁。
  8. ^ 村井1999、14頁。
  9. ^ 『高麗史』巻129・列伝43・叛逆3 崔忠獻「(高宗)三十九年、李峴奉使如蒙古、(崔)沆謂峴曰:『彼若問出陸、宜荅以今年六月。(中略)帝乃留峴、遂遣多可土等密勑曰『汝到彼國、王迎于陸則、雖百姓未出猶可也。不然、速回。待汝來、當發兵致討伐…』」『高麗史』巻24・高宗世家3 高宗三十九年秋七月戊戌(十六日)条「戊戌、蒙古使多可阿土等三十七人來帝密勑多可等曰:「汝到彼國、王出迎于陸、則雖百姓未出、猶可也。不然則待、汝來當發兵致討。」
  10. ^ 『同上』 多可等至王、遣新安公佺、出迎之請蒙使入梯浦館。王乃出見宴未罷、多可等以王不從帝命怒而還昇天館。」/『高麗史節要』巻17・高宗三十九年七月条「秋七月、蒙古遣多可阿土等三十七人、來審出陸之狀。初李峴之如蒙古也。崔沆謂曰『若詰出陸、宜荅以今年六月』。乃出峴未至蒙古、東亰路官人阿母侃通事洪福源等請發兵伐之。帝已許之及峴至。帝問『爾國出陸否』。對如沆言。帝又問『留爾等別遣使審視。否則如何』。對曰『臣於正月發程、已於昇天府白馬山營宮室城郭。臣敢妄對』。對帝乃留峴。遂遣多可土等来密勅曰『汝到彼國、王迎于陸則、雖百姓未出猶可也。不然、速回。待汝來、當發兵致討伐』。峴書状官張鎰随多可能来密知之具白王。王以問沆對曰『大駕不宜輕出江』。公卿皆希沆意執不可。王從之遣新安公佺、出江迎之請蒙使入梯浦館。王乃出見宴未罷、多可等以王不從帝命怒而還昇天館。時人謂『沆以淺智誤國大事、蒙兵必至矣』。」
  11. ^ 『高麗史』
  12. ^ 村井1999、105頁。
  13. ^ 『元史』巻3・憲宗3年癸丑春正月条 「三年癸丑春正月、汪田哥修治利州、且屯田、蜀人莫敢侵軼。帝獵于怯蹇叉罕之地。諸王也古以怨襲諸王塔刺兒營。帝遂會諸王于斡難河北、賜予甚厚。罷也古征高麗兵、以札剌兒帶為征東元帥。遣必闍別兒哥括斡羅思戶口。」
  14. ^ 『高麗史』巻24・高宗世家3 高宗四十一年条「是歲、蒙兵所虜男女、無慮二十萬六千八百餘人、殺戮者不可勝計。所經州郡、皆爲煨燼、自有蒙兵之亂、未有甚於此也。」 /同高宗四十二年夏四月条「是月道路始通。兵荒以來、骸骨蔽野、被虜人民逃入京城者、絡繹不絶。都兵馬使、日給米一升救之然死者無筭」 村井1999、105頁。
  15. ^ 村井1999、93-94頁。
  16. ^ 村井1999、106頁。
  17. ^ 『元史』巻4・世祖本紀 中統元年6月 条「高麗國王王倎遣其子永安公僖、判司宰事韓即來賀即位、以國王封冊、王印及虎符賜之。」/『元史』巻208・高麗伝「(中統元年)六月、倎遣其子永安公僖、判司宰事韓即入賀即位、以國王封冊、王印及虎符 賜之。是月、又下詔撫諭之。」、杉山1996、112-113頁。
  18. ^ 『元史高麗伝』
  19. ^ 杉山1996、113-117頁。
  20. ^ 元史高麗伝。杉山1996、114-115頁。
  21. ^ 杉山1996、115-116頁。
  22. ^ 村井1999、111-114頁。
  23. ^ 『征東行省新論』
  24. ^ 元史』巻108・表3「諸王表」 。『元史』世祖本紀によると「駙馬高麗王」に封じられたのは至元11年7月癸巳(1274年8月22日)
  25. ^ 元史』巻8・世祖本紀5「(至元11年5月)丙申(1274年6月26日)、以皇女忽都魯揭里迷失下嫁高麗世子王愖。」/『元史』巻109・表4 諸公主表「高麗公主位:齊國大長公主忽都魯堅迷失、世祖之女、適高麗王愖、即王昛也。 」
  26. ^ 『元史』巻91・志41上 百官志7「征東等處行中書省。至元二十年、以征日本國、命高麗王置省、典軍興之務、師還而罷。大德三年、復立行省、以中國之法治之。既而王言其非便、詔罷行省、從其國俗。至治元年復置、以高麗王兼領丞相、得自奏選屬官、治瀋陽、統有二府、一司、五道。」
  27. ^ 森平雅彦『モンゴル帝国の覇権と朝鮮半島』

参考文献

史料

二次文献

  • 旗田巍『元寇 --蒙古帝国の内部事情』(中公新書 80)、中央公論社 , 1965年9月
  • 樺山紘一木村靖二・窪添慶文・湯川武編『クロニック世界全史』講談社1994年 ISBN 978-4062068918
  • 杉山正明『モンゴル帝国の興亡 下』講談社現代新書1996年 ISBN 978-4061493070
  • 村井章介『中世日本の内と外』筑摩書房1999年 ISBN 978-4480042286
  • 森平雅彦『モンゴル帝国の覇権と朝鮮半島』(世界史リブレット 99)山川出版社、2011年5月
  • 森平 雅彦 「<論説>駙馬高麗国王の成立 --元朝における高麗王の地位についての予備的考察-- 」『東洋學報』79-(4)、1998年
  • 森平雅彦「元朝ケシク制度と高麗王家 --高麗・元関係における禿魯花の意義に関連して」『史学雑誌』110-(2)、2001年2月
  • 森平雅彦「高麗王家とモンゴル皇族の通婚關係に關する覺書(特集 東アジア史の中での韓國・朝鮮史)」『東洋史研究』67-(3)、2008年12月

関連項目