マッスル北村
マッスルきたむら マッスル北村 | |
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生誕 |
北村克己 1960年10月6日 |
死没 | 2000年8月3日(39歳没) |
出身校 |
東京学芸大学教育学部附属高等学校卒業 東京大学理科II類中退 東京医科歯科大学医学部中退 |
職業 |
ボディービルダー タレント |
マッスル北村(マッスルきたむら、1960年10月6日 - 2000年8月3日)は、ボディービルダー、タレント。本名は北村克己(きたむら かつみ)。
生涯
生い立ちと教育
小学校6年生のころから体を鍛え始めた。中学校2年生の時、自宅から河口湖の往復300kmのサイクリングに挑むが、自転車を16時間こぎ続けたところで意識を失った[1]。高校生のころにも自転車に熱中していた。
二浪して東京大学に入学する[1]。東大に入学後、東京大学運動会ボディビル&ウェイトリフティング部の先輩と出会い、薦められるままに関東学生選手権に出場する。しかし、当時の体重は55kg程度で会場にいた他の選手たちとの体格の違いを痛感したという[1]。
ボディービルダーとして
ボディービルに目覚めた後は、卵を20-30個、牛乳を2-3リットル、さらに鯖の缶詰を3缶、加えてプロテインの粉末300gを毎日摂取した。また、鶏のささみ肉をミキサーにかけ、ペースト状にして摂取していた。消化吸収のために消化剤も大量に摂取していた。
大学の授業には全く出席せず、最終的に東京大学を中退している。大学に通わず、ひたすらトレーニングに明け暮れる息子に対して父親が激昂し、ダンベルシャフトで何度も彼の頭を叩きつけた。このときに左目が網膜剥離となり、手術を受けたという。
東大中退後、東京医科歯科大医学部に合格、入学するも再び中退する。
1985年のアジア選手権でライトヘビー級の称号を獲得したのち、芸能活動も始める。
死・その後
2000年8月3日、低血糖からの合併症で心不全をひき起こして死亡[1]。
2012年8月31日、現役当時に専門雑誌に掲載されたトレーニング記事を再収録した書籍『マッスル北村 伝説のバルクアップトレーニング』が発売された。
入賞歴
- 1985年:IFBB ミスターアジア90kg以下級(ライトヘビー級)優勝
- 1990年:WABBA 世界選手権3位
- 1999年:WABBA 太平洋世界選手権 総合優勝
- 1999年:NPC トーナメント・オブ・チャンピオンズ(ヘビー級)3位
出演作品
テレビ番組
- さんまのナンでもダービー(テレビ朝日)
- たけし・逸見の平成教育委員会(フジテレビ)
- よいこっち
- ガムシャラ十勇士
- CLUB紳助(朝日放送)
- どうぶつ奇想天外!(TBSテレビ)
- 大竹まことのただいま!PCランド
OV
- 獣神サンダーライガー 怒りの雷鳴(1995年2月21日)バウンティ・バイパー
CM
著書
- マッスル北村『ボクの履歴書』 アイアンマン、2001年、ASIN B00BVG85PY
出典
- ^ a b c d 西川正志 (2020年10月1日). “貫く極限 伝説のボディービルダー 没後20年、マッスル北村さん”. 東京新聞. 2021年1月21日閲覧。