マッスル北村

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マッスルきたむら
マッスル北村
生誕 1960年10月6日
死没 (2000-08-03) 2000年8月3日(39歳没)
出身校 東京学芸大学附属大泉小学校卒業
東京学芸大学附属大泉中学校卒業
東京学芸大学教育学部附属高等学校卒業
東京大学理科II類中退
東京医科歯科大学医学部中退
職業 ボディビルダー
タレント

マッスル北村(マッスルきたむら、1960年10月6日 - 2000年8月3日)は、ボディビルダータレント。本名、北村克己(きたむら かつみ)。

東京学芸大学附属大泉小学校卒業、東京学芸大学附属大泉中学校卒業、東京学芸大学教育学部附属高等学校卒業、東京大学理科II類中退、東京医科歯科大学医学部中退。

人物[編集]

端正なマスクと柔和な語り口に反し、驚異的にバルクアップされた肉体で世間の注目を浴び、タレントとしても人気を博した。

以下の経歴には、本人の著書の内容や自称などに基づく、客観的に確認できない情報が含まれている。

高校~大学浪人時代[編集]

北村は、子供の頃から「人は何の為に生まれてくるのか。僕は、せっかく生まれてきたのだから、何か目標を見つけて、自分の限界まで挑みたい。そうしないと時間がもったいない」という観念を持っており、その観念は成長するにつれて、どんどん強くなっていった。 北村の口癖は「僕には時間がない」。それゆえに様々な分野にチャレンジし、常規を逸しているとも言える努力量で真剣に取り組んだ。それに伴い、数多くの挫折も経験した。

進学校に在学していた高校生時代は自転車に熱中していた。「大学には進学せず、競輪選手になりたい」と思い、部屋中を自転車雑誌や自転車のパーツで埋め尽くし、北村独自のトレーニングを毎日実施していた。 あるエピソードを記述すると、北村は、その日も、自宅で地図を広げて、競輪選手になる為のトレーニング計画を練っていた。 計画内容は”地図上での推定直線距離で家から約200kmほどの目標地点へ自転車で向かう。アップダウンの激しい峠の坂道を走破する必要があるが、到着するまで休憩はしないルールを自分に課す”というものだった。

実際に行動に移した北村自身は「当然、地図は読めるから、目標地点までの標高差の激しさもわかってたんです。だけど、地図を見てると、カンタンに行けそうに思えたのね」と笑って、その失敗を振り返った。 「まだ高校生だし、帰りが遅くなると親が心配するから」と深夜2時に家を出発。「道を作られた方も、この道を人が自転車で走るとは考えてなかったと思います」というような峠の難路に大苦戦し、結局16時間ぶっ通しで、約200kmほどの道中を漕ぎ続けた。 休憩はしないというルールだったが、「目標までもうちょっとだし、余りにも喉が渇きすぎて、生命の危機だって思えるくらいだったので、仕方なく」漕ぐのを止めて、持ってきた牛乳一パックを、一気に飲みほした。 しかし、その牛乳は、常温状態で16時間を経過していた為に、完全に腐っていた。牛乳を飲み干してすぐに体の異変が始まり、北村はその痛みで道中で意識を完全に失い、倒れてしまった。

北村いわく「倒れている僕を見つけてくれて、助けていただいた方には本当に感謝しています。起きたら病院のベッドだったの。今思えば、本当に危なかった」。 その後、競輪選手を紹介され、一緒にトラックで走る機会を得たが、競輪選手の驚異的な走行技術を目のあたりにして、「僕は足元にも及ばない」と絶望し、悩んだ末に競輪選手の夢を諦める。

そしてボクシングを行うが、裸眼視力が0.01ほどしかない上に「相手が気の毒でね。さぞ痛かろうって思うと殴れないの。自分が殴られたパンチの数を数えておいて、その数だけ殴るの。自分が殴られた分だけならいいかなって」という平和を愛する性格が災いして、ボクシングも諦める事になり、北村の青春は、紆余曲折の道を辿っていく。

だが、この様々な挫折は、北村にとって無駄だったというわけでない。その後も北村は、成功の為に尋常ならざる努力を日々行うが、この挫折が北村に力を与えた。 「ボクシングジムでね、アルバイトで暮らしながら練習して、チャンピオンを目指す方がいらっしゃるのね。チャンピオンになれるかどうかなんて誰もわからないけど、その方はチャンピオンになりたいという目標に、人生を賭けてチャレンジしてるの。そういう姿勢って、人として素晴らしいなって思った」。

大学入試では、現役防衛医科大学校早稲田大学理工学部に合格したが、入学せずに浪人の道を選び、二浪して、東京大学に入学する。実妹の日記によると、“兄は天才というわけではなく、僕には時間がないと言うのが口癖で、常軌を逸した超絶努力で東大に合格した、努力の人なんです”との事。一例をあげると「兄は、この本の内容を全て覚えるまで、僕は家に帰らないし、食事もしないと言って外出したら、本当に家に帰ってきませんでした」。

ボディビルディングとの出会い[編集]

東大に入学後、東京大学運動会ボディビル&ウェイトリフティング部の先輩と出会い、薦められるままに関東学生選手権に出場する。しかし、筋肉質とはいえプロボクサーを目指していた身長173cm、体重55kg程度の身体では、まるで大人の中に子供が混じっているような状態で、恥ずかしさと情けなさで泣きそうだったという。しばらくすると惨めさが消え、今度は激しい怒りが湧きあげてきた。

浪人時代から、予備校の休み時間に学校を抜け出して懸垂を行ったり、トタン板を丸めて作った手製のリストウェイトを付けるなどの独自の筋力トレーニングをしていたが、ボディビルを本格的に始めたのは東京大学入学後である。そのボディビルに対する熱中ぶりは常軌を逸したもので、本人も「筋肉を大きくする為ならば何でもやった」と自負し、奇行とも思える行為さえも実施した。

ボディビルの初期の段階では、家族と一緒にとる「普通の食事」以外に、卵を20-30個、牛乳を2-3リットル、さらにの缶詰を3缶、加えてプロテインの粉末300gを毎日摂取した。また、このような食事を消化吸収するために、消化剤を大量に摂取した。さらに筋肉のサイズアップに効果があるとして、鶏肉ミキサーにかけペースト状にしたものを大量に摂取した。その結果、ボディビルを始めて僅か10か月で40kgの体重増加に成功する。凄まじい執念が実り、わずか1年程で96kgまで増量、2年後の関東学生選手権を圧倒的実力で優勝。雪辱は果たしたが、既にボディビルへと傾倒していた彼は、社会人大会へとステップアップしていく。

ボディビルへの没頭[編集]

そのボディビルへの熱情のために、大学の授業には全く出席せず、最終的に東京大学を中退している。自分のやりたい事以外は全て余事になってしまう、極端な北村の努力主義が災いした。 「東大の近くまでは行くんだけど、ある道を右に曲がれば東大で、まっすぐ行けば公園なのね。でも僕はまっすぐ行っちゃうの。公園でトレーニングしちゃうのね」と語っている。

大学からドロップアウトし、将来を見据えない生活を過ごしていた北村は「将来の自分はどうあるべきだろう。僕は人の役に立ちたい。お医者さまになろう」とまた一念発起し、昔、使った参考書を引っ張り出してきて猛勉強を開始した。 北村は、二浪して東京大学に入学・中退を経た21歳の段階で、医学部への受験を決意した。「全部忘れてたから、また一からやったのね」。

そして、東京医科歯科大医学部に一発合格、入学するも、北村にとってボディビル以外は余事だった。「やはり、僕はボディビルを極めたい」。ボディビル一本に集中して取り組む為に、またもや中退する。 「入学式で親と写真を撮ったんだけど、これ以降、父の笑った顔を見たことがない」と北村は苦笑しながら語った。北村と父親との関係は、衝突の連続であった。

過酷なトレーニング[編集]

高重量のダンベルで過酷なトレーニングに挑んだ結果、胸や腕の筋肉を断裂したこともあるが、それには怯まず、怪我が癒えるとすぐにトレーニングを再開した。また、ボディビルにおいては筋肉を目立たせるため、試合前の段階では皮下脂肪を減らすための減量を行うのが一般的とされているが、その減量をかなり過激な方法で行ったため、身体中の電解質が不足したり、低血糖症のために倒れ、救急車で病院に搬送されたことが何度もある。

彼の経歴の中でも最も語り草となっているのが、1985年アジア選手権における凄まじい減量である。8月11日の実業団選手権に優勝した直後、急遽アジア選手権のオファーが入る。チャンスとばかりに二つ返事で了承したはいいが、あと4日しかなく、コンテスト直後で身体は疲弊しきっている状態であった。「この状態で出ても結果は知れているので、少し好きな物を食べて筋肉に張りを持たせよう」と考え、食べ始めたが最後、コンテスト直後の食欲は凄まじく、コントロールできないまま食べ続けた結果、わずか2日で85kgから98kgへ太ってしまう。

電車を乗り継いで山奥まで行き、そこから自宅までの100kmマラソンに挑戦する。途中で足の爪がはがれ、シューズの中が血で溢れるほどだったが気絶することなく計120kmを15時間かけて走り抜き、14kgの減量に成功。アジア選手権、ライトヘビー級のタイトルを手にする。

ドーピング疑惑[編集]

1986年7月20日 「ジャパン チャンピオンシップス」において、当時としては斬新であったカーボローディングを独学で身につけ、日本人最高のバルクとして謳われた石井直方を破り、優勝。かねてから憧れであった「ミスターユニバース」の切符を手にする。

しかし、当時JBBFドーピングコントロール委員長であった後藤紀久に、筋肉増強剤であるナンドロロン使用により失格とされてしまう。その時のトラブルが元でJBBFを脱会。

体重は最大で115kg程度までになったこともあり、日本人ボディビルダーとしては前例がないほどのサイズを誇り、あまりの筋肉の大きさにドーピングを疑われることが、その後もあった(自著では薬物使用を否定)。薬物疑惑に関しては、後に著書にて「はめられた」と語っている。

芸能活動[編集]

事実上、国内でのコンテストビルダーとしての道を閉ざされた北村は、自らの次のステージを切り開く為に芸能界へ足を踏み入れた。TV出演やセミナー、後に海外コンテストなどにも活躍の場を求めていくようになる。さんまのナンでもダービーではレギュラー出演を果たし、「ボディビルダーの筋肉は見せかけで使えない」という風潮を打破すべく番組内で大活躍した(詳細は同番組のリンク先を参照)。 しかしながら、月刊アイアンマンに連載されていた回顧録(後に『ボクの履歴書』の名で書籍化)には、「芸能界に足を踏み入れても、学生時代の肉体労働のほうが、よっぽど楽だった」とある。

減量による急死[編集]

2000年8月3日、ボディビルの世界選手権に参加するべく、脂肪を極限まで落とすために20kgの急な減量を行った結果、異常な低血糖状態となり[1]、急性心不全を引き起こして亡くなった。 亡くなる数日前にも倒れて救急車で運ばれており、この時は処置が間に合っていた。北村の身を心配した実妹が「めまいがしたらアメを舐めて。アメ一個でいいから」と懇願するも、「僕は、そんなわずかなカロリーすら摂取したくないんだ」と断る徹底ぶりであった。

だが、この熱情が、結果的に北村の命を奪った。享年39歳。遺体を収容できるサイズの棺桶がなく、特注の棺桶で火葬場に送られる事になった。死亡時の体脂肪率は3%を下回っていたといわれている[誰によって?]

死亡後の人気[編集]

死去から12年が経過した2012年8月31日、現役当時に専門雑誌に掲載されたトレーニング記事を再収録した書籍『マッスル北村 伝説のバルクアップトレーニング』が発売された。

2015年9月23日放送の『この話、凄くないですか?』(フジテレビ)では、秋山竜次ロバート)による『「伝説のボディビルダー」の凄い話』として生前のエピソードなどが語られた[2]

入賞歴[編集]

  • 1985年:IFBB ミスターアジア90kg以下級(ライトヘビー級)優勝
  • 1990年:WABBA 世界選手権4位
  • 1999年:WABBA 太平洋世界選手権 総合優勝
  • 1999年:NPC トーナメント・オブ・チャンピオンズ(ヘビー級)3位

出演作品[編集]

テレビ[編集]

OV[編集]

  • 獣神サンダーライガー 怒りの雷鳴(1995年2月21日)バウンティ・バイパー

CM[編集]

  • ピーポップ(禁煙パイプ)

著書[編集]

関連項目[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 人間の体は、本来であれば体脂肪の燃焼で飢えを凌ぐのだが、北村の場合はその体脂肪が殆ど無かった。また、血糖が低下すると本能により暴食に走ることも多いのだが、精神力の高さが身体の限界を超えてしまい食事を摂らなかったと推測されている。
  2. ^ この話、凄くないですか? - フジテレビ

外部リンク[編集]