鄧芝

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鄧 芝(とう し、? - 251年)は、中国後漢末期から三国時代蜀漢行政官武将政治家伯苗荊州南陽郡新野(現在の河南省南陽市新野県)出身。後漢初期の名臣司徒鄧禹雲台二十八将筆頭)の末裔。母は鄭天生[1]鄧良の父。

経歴

劉璋が統治する時代(194年から214年)に益州(現在の四川省東部)に入った。まだ無名の時期に、益州の従事の張裕が人相をよく見ると聞き訪ねていくと、「70歳を過ぎて大将軍となり侯に封ぜられる」と評価された。その後、巴西太守龐羲がよく士を好むと聞き身を寄せた。

劉備が劉璋を打倒して益州を平定すると、転じて劉備に仕え、郫の邸閣の督となった。ある時に郫を訪問した劉備と語らい高く評価され、以降抜擢されて郫県令・広漢(現在の四川省広漢市)太守を歴任した。清潔かつ厳格に統治を行って治績を挙げ、尚書となった。

223年、劉備死後の蜀は、跡を継いだ劉禅(後主)はまだ少年であり、とも敵対しており危険な状態であった。呉の孫権は劉備の在世時に和睦を求めてきており、劉備も費禕達を使者として派遣していたが、劉備の没後は態度を鮮明にしてはいなかった。

鄧芝は丞相諸葛亮に請われて呉に使いし、蜀との和平に消極的となっていた孫権を相手に、巧みな弁舌で修好を回復させた。孫権は魏と断交し、蜀と再び同盟を結ぶことを決め、張温を使者として蜀に送った。孫権は鄧芝の事を高く評価し、諸葛亮に手紙を送り賞賛した。呉に使いして以来、孫権からは度々手紙や贈物があった。

諸葛亮の北伐に従軍し、中監軍・揚武将軍として軍を支えた。第一次北伐(街亭の戦い)では趙雲の副将として箕谷道を守備したが、馬謖が敗北したため撤退戦を余儀なくされ、曹真の大軍に敗れている(趙雲伝)。その後も要職を歴任し、前軍師・前将軍兗州刺史・陽武亭侯となった。まもなく江州の都督となった。

243年には車騎将軍となり、仮節も与えられた。248年、涪陵(現在の重慶市)で反乱があったが、これを鎮圧して民衆を安堵させた。251年、没した。

生年は不明だが。『三国志』蜀書宗預伝にある会話から、247年の時点で70歳を越えており、諸葛亮より年上であった事が確認できる。

清廉な人物として知られ、兵卒らにはよく施しをしながらも、自らは質素倹約に努めて私腹を肥やす事もなく、顕官にありながら妻子にひもじい思いをさせ、財産も残さなかった。性格は剛毅で飾り気なく、士人とうまく付き合えなかった。人を高く評価する事は少なかったが、姜維の才能は買っていた。宗預伝によると晩年は驕慢になったため費禕も遠慮していたが、宗預だけは鄧芝とうまく付き合うことができたとある。 子が爵位を継いで尚書左選郎となり、鄧艾成都に迫ると降伏の使者として鄧艾に接見し、蜀滅亡後の西晋では父と同じ広漢太守となっている。(『三国志』「蜀書」鄧芝伝)

小説『三国志演義』では、孫権が蜀の使者を脅すために置いた熱された大きな釜を罵倒、それに怒った孫権を諭した上で、命がけで同盟を結ぶと言い釜に飛び込もうとし、それに驚いた孫権が感服し蜀と再び同盟を結ぶ、という演出がなされている。

出典

  1. ^ 『真誥』巻12・稽神枢第2