ホウ羲
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
| 本来の表記は「龐羲」です。この記事に付けられた題名は記事名の制約から不正確なものとなっています。 |
龐 羲(ほう ぎ、生没年不詳)は、中国後漢時代末期の武将、政治家。司隷河南尹の人。
[編集] 事跡
| 姓名 | 龐羲 |
|---|---|
| 時代 | 後漢時代 |
| 生没年 | 〔不詳〕 |
| 字・別号 | 〔不詳〕 |
| 本貫・出身地等 | 司隷河南尹 |
| 職官 | 議郎〔後漢〕→和徳中郎将〔劉焉〕 →巴西太守〔劉璋〕→左将軍司馬〔劉備〕 |
| 爵位・号等 | - |
| 陣営・所属等 | 劉焉→劉璋→劉備 |
| 家族・一族 | 義理の子:劉循 |
最初は、朝廷で議郎を務めており、益州牧劉焉とは父祖以来の交際があった。興平元年(194年)、劉焉の子劉範・劉誕が、李傕を討伐しようとして処刑されると、龐羲はその子供たちを連れて益州へ逃れた。劉焉が死去し、劉璋がその後を継ぐと、龐羲は巴西太守に任命され、漢中の張魯に備えた。また龐羲の娘は、劉璋の子劉循の妻となった。龐羲は士を好むとの評判があったため、鄧芝などが身を寄せている。
ある時、龐羲は張魯に対抗するため、私兵を募集していたが、劉璋に讒訴する者があり、劉璋は龐羲を猜疑するようになった。龐羲は恐れて、巴西の程畿に救援させようと、その子程郁を派遣したが、程畿は「異心を抱いていないのなら、誠意を尽くすべきです」と回答してこれを拒否した。龐羲は程郁を殺すと脅して、あくまで程畿を協力させようと迫ったが、重ねて拒否されたため、ついに劉璋に謝罪したところ、劉璋もこれを許した。
なお、建安16年(211年)、張松が劉備を益州に招き入れる目的で劉璋に進言した際に、「龐羲・李異が自らの軍功に驕り、外部と手を結ぼうとしている」と述べているが、張松が上記の讒言者と同一人物であるかは不詳である。
劉備が益州を平定すると、龐羲はこれに仕え、左将軍・司馬に任命された。建安24年(219年)、劉備を漢中王に推挙した際には、営司馬として名を列ねている。
[編集] 物語中の龐羲
小説『三国志演義』では、「龐義」という名でも登場している(第65回)。龐羲は史実通り巴西太守を務め、張魯が益州進攻を図ると知ると、この情報を劉璋に告げる。劉備が益州を平定すると、営中司馬になっている。