エドゥアルト・ターフェ
エドゥアルト・フランツ・ヨーゼフ・フォン・ターフェ伯爵(ドイツ語: Eduard Franz Joseph Graf von Taaffe、1833年2月24日 - 1895年11月29日)は、オーストリア(オーストリア=ハンガリー二重帝国)のティロル系貴族・政治家。2度にわたり首相を務めた。またイギリス帝国のアイルランド貴族(第11代ターフェ子爵)でもある。
経歴
[編集]出自
[編集]アイルランド貴族であるとともにオーストリアのティロル系貴族(伯爵)で、司法大臣や高等裁判所長官を歴任したルートヴィヒ・ターフェ(イギリス名ルイス・パトリック・ジョン・ターフェ / アイルランド貴族としては第9代ターフェ子爵(Viscount Taaffe))の次男としてウィーンに生まれる(1873年、兄カール(チャールズ)の死去により伯爵(子爵)家を継承)。幼いころにはフランツ・ヨーゼフ皇太子(のちのオーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世)の学友に選ばれたこともある。
第一次組閣
[編集]1868年9月24日、ターフェはフランツ・ヨーゼフ1世により首相(二重君主国のオーストリア側首相)に任命され、ハンガリー人とのアウスグライヒを推進し帝国議会で多数を占めていた自由主義的ブルジョワ(ドイツ系が大半を占めていた)の閣僚からなる内閣を率いた。彼は支配下にあるチェコ人とドイツ人との宥和政策を進めたが、ドイツ人の抵抗により失敗し、1870年1月15日に辞任した。
第二次組閣とチェコ人宥和策
[編集]その後自由主義勢力は1873年に始まる大不況への無為無策やベルリン会議(1878年)における対応[1]により支持を失い1879年の帝国議会選挙で議席を半減させた。これを背景に、ターフェは同年8月12日再び首相に任命され、「封建派」と呼ばれた地主層、カトリック教会、老チェコ党などボヘミア・ガリツィアの保守的民族政党と協力しドイツ系の自由主義勢力を包囲する保守的な「鉄の環」政権を率いた。これに伴い1863年以来帝国議会をボイコットしていたチェコ系議員は同年10月議会に復帰し、ターフェ内閣は各民族政党の民族主義的主張、特にチェコ系の要求に配慮する政策を進めることになった。1880年に内務省・司法省の省令として発せられた、いわゆる「ターフェ言語令」[2]はその一環であり、チェコ人が多数を占めるボヘミア地方においては外務語(官庁の窓口で住民との対応に使用される言語)に限ってドイツ語とチェコ語の対等性を保障するものであった。また1882年にはプラハ大学を「ドイツ語部」と「チェコ語部」に二分する措置がとられた。
社会政策と外交
[編集]また次第に台頭する労働運動に対しては、それを宥めるためにドイツ帝国のビスマルクの政策にならいさまざまな社会政策立法が行われた。まず1885年の改正営業法で国家が各企業の労働条件に関与する道を開き、1889年には疾病・傷害保険への加入が義務化された。その他小規模営業者や小農民に対しても保護的な諸政策が採られ、反面、都市部の労働者の間で力を伸ばしつつあった社会主義勢力に対しては社会主義者鎮圧法により徹底的に弾圧をもって臨んだ。保守派でありつつも現実的感覚に優れた政治家であったターフェは、チェコ系の政治指導者と提携することで政治の安定を勝ち取り、二重帝国期において10年以上に及ぶ異例の長期政権を実現し、その任期は隣国ドイツにおける「ビスマルク時代」の後半期とほぼ重なっていた。また彼の在任中、オーストリアはグスタフ・カールノキ外相の下で三国同盟や三帝協商に参加しいわゆる「ビスマルク体制」の形成に協力しつつロシアとの協調関係を維持することにより、国際社会での地位を安定したものにした。
辞任と死
[編集]しかし彼が社会政策の一環として進めた選挙権の拡大は、一方で各民族政党の大衆政党化や都市労働者を基盤とする社会民主労働党の台頭をもたらし、彼らは普通選挙の実施を要求することとなった。政権はその要求に応えることができず、1893年11月11日、ターフェは首相を辞任した。彼の辞任後、オーストリアの政治は短命政権が続く不安定な状況に再び陥ることになった。
首相辞任2年後の1895年、ボヘミアのEllischau(現・チェコのNalžovské市)で死去。
備考
[編集]ルドルフ皇太子とは政治的な確執が存在していたため、ルドルフの(悲劇的な)人生を取り上げた作品にしばしば脇役として登場する。
関連項目
[編集]- カジミール・フェリクス・バデーニ - ターフェ言語令を全面的に改正した言語令を発布した首相。
- ティサ・カールマーン - ターフェとほぼ同時期にハンガリー王国首相を務め保守派の長期政権を維持した。
注釈
[編集]- ^ アンドラーシ外相の外交戦によりボスニア・ヘルツェゴビナの行政権を獲得するなどの成果を上げたが、ドイツ系が多い自由主義派はスラヴ系の居住地域を拡げるものとして、これに反対した。
- ^ 「シュトレマイヤーの言語令」とも称する。薩摩秀登、p.98。
参考文献
[編集]- A・J・P・テイラー『ハプスブルク帝国 1809-1918:オーストリア帝国とオーストリア=ハンガリーの歴史』〈倉田稔訳〉 筑摩書房、1987年。ISBN 978-4480853707/ちくま学芸文庫、2021年。ISBN 978-4-480-51062-4
- 大津留厚『ハプスブルクの実験:多文化共存を目指して』中公新書、1995年。 ISBN 4121012232
- 同 『ハプスブルク帝国』山川出版社〈世界史リブレット〉、1996年。ISBN 4634343002
- 南塚信吾編『ドナウ・ヨーロッパ史』山川出版社〈新版世界各国史〉、1999年。ISBN 4634414902
- 薩摩秀登『図説・チェコとスロヴァキア』河出書房新社<ふくろうの本>、2006年。ISBN 4309760872
|
|