シュコダ・ファビアWRC

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シュコダ・ファビア WRC
カテゴリー ワールドラリーカー
コンストラクター シュコダ・モータースポーツ
先代 シュコダ・オクタヴィアWRC
主要諸元[1][2]
全長 4,002mm
全幅 1,770mm
全高 1,429mm
ホイールベース 2,462mm
エンジン 1,984cc 直列4気筒 ターボ
フロント横置き
トランスミッション 6速シーケンシャル
四輪駆動
重量 1,230kg
タイヤ ミシュラン
主要成績
チーム チェコの旗 シュコダ・モータースポーツ
ドライバー
初戦 ドイツの旗 2003年ラリー・ドイチェラント
出走優勝表彰台タイトル
57000
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シュコダ・ファビアWRC(シュコダファビアダブリューアールシー、Škoda Fabia World Rallycar)は、世界ラリー選手権 (WRC) に出場することを目的として、シュコダ・ファビアをベース車両としてワールドラリーカーホモロゲーションを取得するためにシュコダが製作した競技専用車。2003年第8戦ドイツでデビューし、2007年シーズンまでに計30戦に公式参戦したが、優勝やポディウムを獲得することはできず、2005年のツール・ド・コルスでフランス人ドライバーのアレクサンドル・ベンゲ英語版が6位入賞したのが最高成績である。ワークス撤退後はプライベート・ドライバーの手に渡りそこそこの結果を残している。ディディエ・オリオールトニ・ガルデマイスターアルミン・シュヴァルツヤニ・パーソネン英語版ロマン・クレスタ英語版ミッコ・ヒルボネンコリン・マクレーヤン・コペッキー英語版らのドライバーがこの車両を運転した[3]

WRCでの成績が振るわなかったにも関わらず、このモデルは2008年に開発されたシュコダ・ファビアS2000の基となり、IRCヨーロッパラリー選手権などの様々な国際イベントや選手権に参加し、いくつかの勝利とタイトルを獲得した。

概要[編集]

シュコダ・オクタビアWRCの後継として開発された。

全長の長過ぎるオクタビアの開発に悩まされていたシュコダとしては待望のBセグメントハッチバックであった。

開発[編集]

シュコダがファビアのワールドラリーカーモデルの開発を決定した時点で、シュコダはすでにラリーでの経験があり、このカテゴリーでシュコダ・オクタビアWRCのホモロゲーションを取得していた。 しかし、成績が悪く、競技には不向きなモデルであったことからメーカーはトップカテゴリーでの競争力のある新しい車両を設計する必要に迫られた。エンジニアチームが最初に直面した問題は、競技規則では車両全長4m以上となっているにも関わらず、標準状態のファビアの全長が3.96mしかないことだった。そこで、必要な全長を満足するように大型のバンパーを備えたスポーツモデルを「シュコダ・ファビアRS」として発売した。それ以降、多くのライバル同様にターボチャージャーや四輪駆動を標準装備しないベース車両からの開発が始まった。先代のオクタビアWRCと比べた利点の一つは、ホイールベースがほぼ同じで車体寸法が小さく、オーバーハングの重量(特にフロント)が軽減されたことで操縦性が向上した。シャシーは補強されてセーフティケージが装着され、ドライブシャフトを収納してシャシーから隔離するためのトンネルがフロアに設置された。リアサスペンションはマクファーソン・ストラットに改められ、エンジンは先代オクタビアのものが流用された。エンジンブロックはアウディ製でオクタビアRSに搭載されていたが、1.8リッターエンジンだったために、2.0リッターまで拡張する必要があった[4]。また、加速をやめた時や回転数が下がった時にターボ出力が低下するのを避けるために、アンチラグシステム(ALS)と呼ばれるエキゾーストマニホールドに未燃焼ガスを導入して燃焼させ、スロットルオフでもターボの回転が止まらないようにするシステムを開発した。駆動系のディファレンシャルは、当初はフロント・リアがパッシブ、センターデフがハングオンクラッチで、2004年モデルからプロドライブが設計した3個のアクティブデフが装備され、フロントとセンターのデフはギアボックスハウジングに固定、リアデフはリアアクスルに設置された[5]

最終的にエンジンは最高出力は300bhp/5,500rpm、最大トルクは600Nm/3,500rpmとなった 6速シーケンシャル・ギアボックスはX-trac製とカールソン製の2種類がホモロゲーションを受け、デビュー戦では前者をオリオール、後者をガルデマイスター用と使い分けていたが、第9戦フィンランドからはX-trac製に統一している。後にパドルシフトを採用した。

2004モデルのショックはレイガー製。車体サイズは4,002×1,770ミリ、ホイールベースは2,642ミリ。車重はWRカーミニマムの1,230kg。

WRCでの活躍[編集]

2003年シーズン[編集]

このシーズン、シュコダはシュコダ・オクタビアWRCで参戦し、シュコダ・ファビアWRCはオリオールとガルデマイスターのドライブによる第8戦ラリー・ドイチェランドでようやくデビューしたが、成績は振るわなかった。セットアップ不足で2戦連続リタイアを喫した。オーストラリアではふたりともポイント圏外ながら完走。その後はトップ10に入ることもできず、最終的には7戦出場でドライバーズポイントは0点、マニュファクチャラーポイントは3点という、完走するのが精一杯という有様であった。この競争力不足により、2004年はヨーロッパでのテスト参加にとどめ、マシンの開発に専念することになった[5]

チーム ドライバー モナコの旗
MON
スウェーデンの旗
SWE
トルコの旗
TUR
ニュージーランドの旗
NZL
アルゼンチンの旗
ARG
ギリシャの旗
GRE
キプロスの旗
CHI
ドイツの旗
GER
フィンランドの旗
FIN
オーストラリアの旗
AUS
イタリアの旗
SRM
フランスの旗
FRA
スペインの旗
ESP
イギリスの旗
GBR
順位 ポイント 順位 ポイント 備考
2003年 シュコダ・モータースポーツ英語版 フランスの旗 ディディエ・オリオール Ret Ret 12 12 Ret Ret 11 13º 4 23 [6]
フィンランドの旗 トニ・ガルデマイスター Ret Ret 11 Ret 11 12 Ret 12º 9

2004年シーズン[編集]

2004年ラリー・フィンランドでのドライバー、ヤニ・パーソネン

2004年、チームはアルミン・シュワルツとともに主にペーブメントでの様々なテストを行ない、結果を出し始めたが、さらに予算が削減されてしまい、ヨーロッパラウンドのみの限定参戦となった。エンジンチューナーがリーマンからアウディ・シュポルトに代わり、チェコ側が主体であった開発がアウディ寄りになっていく。ディファレンシャルもトリプルアクティブデフへと変更され、2004年のトレンドとなるスペックを得た。フィンランドでは3台目のファビアをスポット起用のヤニ・パーソネンが6位、ドイツでガルデマイスターが7位、ツール・ド・コルスアルミン・シュヴァルツが8位とわずかずつながらパフォーマンスを向上していった。

2004年に特例のオプション変型(VO)で排気系の変更、ウォーターインジェクションの追加など、細かいファインチューンを重ね、05年はフル参戦に復帰。ドライバーはアルミン・シュヴァルツとヤンネ・トゥオヒノ、ヤニ・パーソネン、アレックス・ベンゲ、ミッコ・ヒルボネンをイベントによって使い分けている。エアロダイナミクスはアウディの実験施設を利用して改善され、ターボチャージャーや排気系、ECUも変更。中盤から6速トランスミッションが5速に変更されている。

チーム ドライバー モナコの旗
MON
スウェーデンの旗
SWE
メキシコの旗
MEX
ニュージーランドの旗
NZL
キプロスの旗
CHI
ギリシャの旗
GRE
トルコの旗
TUR
アルゼンチンの旗
ARG
フィンランドの旗
FIN
ドイツの旗
GER
日本の旗
JPN
イギリスの旗
GBR
イタリアの旗
CER
フランスの旗
FRA
スペインの旗
ESP
オーストラリアの旗
AUS
順位 ポイント 順位 ポイント 備考
2004年 シュコダ・モータースポーツ英語版 ドイツの旗 アルミン・シュワルツ Ret 12 11 Ret Ret 8 11 33º 1 - - [7]
フィンランドの旗 トニ・ガルデマイスター Ret 8 7 22 Ret 9 9 24º 3
フィンランドの旗 ヤニ・パーソネン英語版 6 Ret 21º 3
ドイツの旗 ロマン・クレスタ英語版 Ret - 0

2005年シーズン[編集]

2005年のファビアとコリン・マクレー

2005年第3戦から05スペックマシンがデビューし、パフォーマンスの向上はみられたものの、ベストリザルトはツール・ド・コルスでベンゲが刻んだ6位に留まった。しかし最終戦オーストラリアではコリン・マクレーが終盤まで三菱のハリ・ロバンペラと数秒差の白熱した2位争いを演じ、世界中のWRCファンを熱中させた(結果は3つのSSを残した状態でエンジントラブルによりリタイア)。ラリージャパンでは初めてワークスとして日本の地を踏み、ほとんど輸入されていないため滅多に見ることのできないシュコダ車が走ることも話題になった。シュコダチームが日本のファンのために、ファビアの車体にカタカナで「シュコダ」と描いたが、「ダ」の濁点が3つになっていた。

チーム ドライバー モナコの旗
MON
スウェーデンの旗
SWE
メキシコの旗
MEX
ニュージーランドの旗
NZL
キプロスの旗
CHI
トルコの旗
TUR
ギリシャの旗
GRE
アルゼンチンの旗
ARG
フィンランドの旗
FIN
ドイツの旗
GER
イギリスの旗
GBR
日本の旗
JPN
フランスの旗
FRA
スペインの旗
ESP
オーストラリアの旗
AUS
順位 ポイント 順位 ポイント 備考
2005年 シュコダ・モータースポーツ英語版 ドイツの旗 アルミン・シュワルツ英語版 Ret 9 10 Ret 13 Ret 18 16 11 Ret 14 10 Ret 11 8 27º 1 21 [8]
フランスの旗 アレクサンドル・ベンゲ英語版 9 Ret 6 Ret 21º 3
スウェーデンの旗 マティアス・エクストローム 10 - 0
フィンランドの旗 ミッコ・ヒルボネン Ret 10º 14[注釈 1]
イギリスの旗 コリン・マクレー 7 Ret 22º 2
フィンランドの旗 ヤニ・パーソネン英語版 9 13 Ret Ret Ret - 0
フィンランドの旗 ヤンネ・トゥオヒノ英語版 Ret Ret 13 9 13 Ret 10 - 0
チェコの旗 ヤン・コペッキー英語版 37 Ret 12 8 26º 1

ワークス撤退後[編集]

レッドブル・シュコダのファビアWRC
2007年のヤン・コペッキー

2006年はワークスとしては撤退するが、オーストリアのプライベーターにレッドブルがスポンサーに付きセミワークスとして活動。アルミン・シュヴァルツがチームをコーディネートし、車体のカラーリングも一新した。ドライバーはチェコのアンドレアス・エイグナーがメインとなり、ジル・パニッツィ、ハリ・ロバンペラ、マティアス・エクストロームもチームに加わった。レッドブル以外でもフランソワ・デュバルがベルギーのファースト・モータースポーツのスポンサードを受けて出場。またヤン・コペッキーも自身のチームでプライベート・ファビアを駆り出場している。しかしスペインでコペッキーが5位、デュバルが6位に入賞した程度の成績しか残せず、マシンのパフォーマンスに不満の高まっていたパニッツィは第5戦ツール・ド・コルス直前にチームを離脱。急遽ロバンペラが代役を務めることになるなどの混乱もあり、06年も成績は低迷した。

また2006年はレギュレーションの変更により、前年にドライバーズランキングで上位だったドライバーはアクティブデフなどを使えなくなったため、パニッツィ、ロバンペラ、デュバルはパッシブデフ仕様のマシンでの出場となり、成績不振につながった。しかしモンテカルロやカタルニアではデュバルがSSベストを刻むなど気を吐いている。

2007年以降はセミワークスとしても撤退し、プライベーターが用いる程度になった。

次期ファビアのラリーカーは、外注頼りで失敗したWRカーでの反省を活かし、内製を基本として開発されたスーパー2000規定車両として生まれ、2009年以降IRCやSWRCで存分に活躍することになる。

主要諸元[編集]

エンジン
  • 形式:ターボ過給1997 ml
  • 気筒配置:直列4気筒
  • バルブ数:20
  • ボア x ストローク:85.0 x 88.0 mm
  • 最大出力:300 hp (220 kW)
  • 最大トルク:530 Nm
諸元
  • 全長:4005 mm
  • 全幅:1770 mm
  • 全高:1300 mm
  • 軸距:2468 mm
  • トレッド幅:1534 mm
  • 重量:1.230 kg
駆動系
  • 4輪駆動
  • 縦置きギアボックス
  • トランスミッション:6段シーケンシャル
  • クラッチ板:3枚

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ ミッコ・ヒルボネンがシュコダ・ファビアWRCで出場したのは日本GPの1回のみ。つまり、彼が獲得したポイントはフォード・フォーカスWRCの他のイベントで獲得したものである。

出典[編集]

  1. ^ Škoda Fabia WRC”. juwra.com. 2021年1月20日閲覧。
  2. ^ Škoda Fabia WRC 05”. juwra.com. 2021年1月20日閲覧。
  3. ^ Scalextric, Campeones de Rally. Vol. I. 
  4. ^ Scalextric, Campeones de Rally. Vol. I. 
  5. ^ a b Scalextric, Campeones de Rally. Vol. I. 
  6. ^ Season 2003”. 3 de octubre de 2013閲覧。
  7. ^ Season 2004”. 3 de octubre de 2013閲覧。
  8. ^ Season 2005”. 3 de octubre de 2013閲覧。

関連項目[編集]