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サティ (仏教)

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サティ(パーリ:sati、サンスクリット:smṛti、漢訳:「念」、英語:mindfulness)は、仏教における「念」のパーリ語の発音。を特定のものに留めて置くことであり、仏教における瞑想の主要な技術の一つである。

「念」の替わりに「サティ」と呼ぶ場合は、上座部仏教における念を指す。気づきとも言う。

伝統的な仏教においては、正しい念は八正道のなかの「正念」、あるいは三十七道品のなかの四念住などにおける「念」とあるように、基本概念の一つである。

語意

日本のおいては浄土宗において仏(阿弥陀仏)を念じる念仏が強調された経緯から、「念じる」が「強く心に思う」という意味として一般化している。しかし元々の念の意味は任意の対象物に心を固定させ続けることによって「止」の境地に至り、そこから観を得ることを目的とするものである。このため念の対象は様々で上座部では40あり、これは「呼吸」であったり「慈悲の感情」であったり、4大元素の火を象徴する「赤い円盤」であったり、「人間の死体」であったりする。もともと、浄土宗の念仏も常に心に阿弥陀仏を留めておくという意味であったがこれが大衆化すると共に強く心に思い浮かべるという意味に転化している。また日本においてサティが「気づき」と訳されるのは、日本に伝わった上座部のビパサナ(観)瞑想において念・サティを「気づき」と訳したことに始まる。これはビパサナ瞑想においては森羅万象のすべてを認識する(気づく)ことによって観を得るという手法が取られるからである。一方で止を目指す場合は単一のものに集中して他のことに気を紛らわされない念で禅定の境地を目指す。よってビパサナ瞑想の方法論では常に意識の対象が動くため「止」の帰結である禅定の境地が避けられている。

概要

サティは基本的に瞑想中にするもので、坐禅経行、立禅の最中に行う。また掃除や皿洗いや裁縫などの日常生活の簡単な動作そのものを念の対象とすることもある。これから最終的には仕事中や会話中などの日々の生活において複雑な作業をしているときでも常にサティを行えるようになるとされる。

上座部におけるビパサナ瞑想においては、今という瞬間に完全に注意を集中して自分を客観的によく「観察」し、「今・ここの自分」に現在進行形で気づいていくことであるとされるが、これは念を「観」に向けたもので、意識的に禅定(禅那、ジャナ)にいたる「止」が避けられている。

欧米では、心理療法にサティを取り入れ、マインドフルネス認知療法として、うつ病の再発予防に活かしている[1]

関連

参考

脚注

  1. ^ 『マインドフルネス認知療法 うつを予防する新しいアプローチ』(Z・V・シーガル、J・M・G・ウィリアムズ、J・D・ティーズデール共著、越川房子監訳、北大路書房、2007年)

外部リンク