クラウス・ニーヅビーズ

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クラウス・ニーヅビーズKlaws Niedwiedz1951年2月24日 - )は、ドイツの元レーシングドライバーである。現在はモータージャーナリストとして活躍している。同国のドルトムント出身。

来歴

彼は主にツーリングカーレースにて活躍し、ドイツツーリングカー選手権に1985年からフォード・シエラで参戦。初参戦だったアヴスでのレースで優勝した。翌年も優勝を記録しており、シリーズ6位を得ている。1987年は世界ツーリングカー選手権に同じくドイツツーリングカー選手権で活躍し、ル・マン24時間レースの勝者でもあるクラウス・ルートヴィッヒと組んでシエラで参戦した。最終戦のインターTECでも優勝。合計4勝する好成績を残したが、ニーズビーズとルートヴィッヒは車両規定違反として2レースで失格の裁定を受けてしまいタイトルを獲得したBMWのロベルト・ラヴァーリアに僅かに及ばず2位となってしまう。ラヴァーリアも1レースで失格となっており、ポイント差も僅か1ポイントであった。

翌年からは再びドイツツーリングカー選手権に参戦。1989年はタイトル争いを展開したが惜しくも2位となった。ニーズビーズを押さえてこのレースのタイトルを獲得したのもラヴァリーアであった。

また1988年から1990年の3年間引き続きインターTECにエントリーしており、88年はこの年の全日本ツーリングカー選手権のチャンピオンの横島久。1989年はアラン・モファットと組んで優勝し、ニーズビーズはインターTEC3連覇を達成した。90年もグレッグ・ハンスフォードと共に3位に入賞を果たしている。1985年から1998年まで11回に渡って開催されたインターTECでの優勝回数は星野一義についで2番目に多いドライバーとなっている。(但し、JTCCに移行前のインターTECでの優勝回数では星野を上回っている。)

その後も引き続きDTMに1991年まで参戦を続けたが以前のような好結果を残すことはできなかった。

3年間のブランクの後ニーズビーズは、1995年からDTMに代わって開催されたドイツ・スーパーツーリング選手権(STWカップ)でチーム・メイトで同じく、ツーリングカーレースで活躍しているアルミン・ハーネと共にホンダ・アコードに2年間乗り、1996年は数回表彰台に登って8位となった[1]。97年はアウディ・A4で参戦。98年はオペル・ベクトラをドライブしたが、この年を持って第一線を退いた。

引退後はモータージャーナリストとして活躍しているが、2009年からは再びセアト・レオンカップにドライバーとして参加するなどモータースポーツに関わり続けている。

レース戦績

ル・マン24時間レース

チーム コ・ドライバー 使用車両 クラス ラップ数 順位 クラス
順位
1981年 ドイツの旗 ヨースト・レーシング アメリカ合衆国の旗 デール・ウィッティントン
ドイツの旗 ラインホルト・ヨースト
ポルシェ・908/80 S+2.0 80 DNF DNF
1982年 ドイツの旗 フォード・ワークス AG
ドイツの旗 ザクスピード
ドイツの旗 マンフレッド・ヴィンケルホック フォード・C100 Gr.C 71 DNF DNF

全日本ツーリングカー選手権

チーム 使用車両 クラス 1 2 3 4 5 6 順位 ポイント
1987年 エッゲンバーガーモータースポーツ フォード・シエラRS500 DIV.3 NIS SEN TSU SUG FSW
1
SUZ
1988年 Object T JTC-1 SUZ NIS SEN TSU SUG FSW
1
1989年 JTC-1 NIS SEN TSU SUG SUZ FSW
1
1990年 アラン・モファット・エンタープライズ JTC-1 NIS SUG SUZ TSU SEN FSW
3

世界ツーリングカーカップ

国籍 チーム 使用車両 1 2 総合順位
1995年 ドイツの旗 ドイツ チーム・ホンダ・リンダー ホンダ・アコード 12 8 7位

脚注

  1. ^ Klaus Niedzwiedz” (英語). Super Touring Register. 2020年3月4日閲覧。