カール (バーデン大公)
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![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/8/80/Karl_Ludwig_Friedrich%2C_Grand_Duke_of_Baden_%28July_8%2C_1786_in_Karlsruhe-December_8%2C_1818_in_Rastatt%29.jpg/200px-Karl_Ludwig_Friedrich%2C_Grand_Duke_of_Baden_%28July_8%2C_1786_in_Karlsruhe-December_8%2C_1818_in_Rastatt%29.jpg)
カール(Karl, 1786年7月8日 - 1818年12月8日)は、バーデン大公国の第2代大公(在位:1811年 - 1818年)。全名はカール・ルートヴィヒ・フリードリヒ(Karl Ludwig Friedrich)。初代バーデン大公カール・フリードリヒの孫。
1786年7月8日、バーデン=ドゥルラハ辺境伯カール・フリードリヒの長男であるカール・ルートヴィヒと、その妃であったヘッセン=ダルムシュタット方伯ルートヴィヒ9世の娘アマーリエ(1754年 - 1832年)の間に第6子(次男)としてカールスルーエで生まれた。兄のカール・フリードリヒはこのとき既に歿していたため、1801年に父がスウェーデンで事故死すると法定推定相続人となった。
バーデンは1803年に選帝侯となり、さらに1806年に神聖ローマ帝国が解体すると大公国となった。1811年に祖父が死去するとカールは大公位に即いた。当初バーデンはライン同盟に加盟していたが、1813年のライプツィヒの戦いの後はフランスから離れた。クレメンス・メッテルニヒが主宰したウィーン会議に参加し、1815年に成立したドイツ連邦の原加盟国となった。
1818年12月8日にラシュタットで死去。息子はともに夭逝していたため、叔父のルートヴィヒ1世が大公位を嗣いだ。
素性不明の捨て子カスパー・ハウザーに関する噂の一つに、カスパー・ハウザーは1812年に誕生後すぐに死去したとされたカールの長男であったというものがある。
子女
1806年4月8日にナポレオン・ボナパルトの養女であるステファニー・ド・ボアルネ(1789年 - 1860年)とパリで結婚した。彼女との間には以下の子供をもうけた。
- ルイーゼ・アマーリエ・シュテファニー (1811年 - 1854年、スウェーデン王子グスタフ妃)
- 男子 (1812年9月10日 - 1812年10月16日)
- ヨゼフィーネ・フリーデリケ・ルイーゼ (1813年 - 1900年、ホーエンツォレルン=ジグマリンゲン侯カール・アントン妃)
- アレクサンダー (1816年5月1日 - 1817年5月8日)
- マリー・アマーリエ・エリーザベト・カロリーネ (1817年 - 1888年、ハミルトン公爵ウィリアム・ハミルトン夫人)
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