ステファニー・ド・ボアルネ

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ステファニー・ド・ボアルネの肖像(フランソワ・ジェラール画)

ステファニー・ド・ボアルネ(Stéphanie Louise Adrienne de Beauharnais, 1789年8月28日 - 1860年1月29日)は、バーデン大公カールの妃。 第2代ロシェ=バリトー伯クロード・ド・ボアルネと妻クロード・フランソワーズの長女としてパリで生まれた。

父の従弟アレクサンドル・ド・ボアルネの妻が、のちのフランス皇后ジョゼフィーヌであったことが彼女の人生に大きな影響を与えることとなる。

未亡人になったジョゼフィーヌと結婚したナポレオン・ボナパルトは、出世とともに生家ボナパルト家とボアルネ家の庇護者となり、1804年に皇帝になると、親族としてステファニーはテュイルリー宮殿に住むようになった。しかし、宮殿とフランスにいられたのはわずかな間だけだった。ナポレオンはバーデン大公カール・フリードリヒとの同盟が必要になり、その証として大公の孫カール・ルートヴィヒと自らの親族の縁組みを考えたが、年齢の釣り合う女性がいなかったのである。そこで、ステファニーに白羽の矢が立った。ナポレオンはステファニーを養女にして「フランス皇女」の称号を与えた。

1806年4月、ステファニーはカール・ルートヴィヒと結婚した。この政略結婚は成功とはいいがたかった。カール・ルートヴィヒは独り身で生活し続けたのである。夫はカールスルーエに住居をかまえ、ステファニーはマンハイムに離れて住むよう命じられた。ナポレオンが公的にこの別居問題に介入しても、状態は変わらなかった。大公は孫夫婦に、シュヴェツィンゲンに共用の夏の別荘を持つよう勧めたが、これはステファニーが受け入れなかった。高齢の大公の余命がわずかだと知ると、夫婦はようやく別居を解消し、跡継ぎを生むために和解した。1811年6月、カール・ルートヴィヒは大公位を継いだ。

カール大公が1818年に亡くなると、ステファニーは残りの人生を再婚せず寡婦として過ごし、3人の娘たちに献身的な愛を注いだ。彼女のマンハイムの邸宅は、芸術家と知識人の集うサロンとして有名だった。ステファニーは、1860年にニースで亡くなった。

謎の子供[編集]

ニュルンベルクで発見された、暗室で外界と遮断されて育ったという謎の子供カスパー・ハウザーは、ステファニーの子供であると長い間信じられてきた。

2002年、ミュンスター大学の医学研究所は、カスパーの頭髪と体細胞を採取し(遺品の帽子やズボン、私蔵品の中から全て別々のルートで)、提供された6つのサンプルと比較した結果、どのサンプルとも全て遺伝子が合致したうえ、ステファニーの子孫の女性とは95%もの一致を示した。バーデン大公家は沈黙を守っているが、大公家と関係のあるバーデン=ヴュルテンブルクの人々の間では、カスパールがバーデン大公家の一員であることは広く真実だと受け止められている。

子供[編集]